2014年3月17日月曜日

コーチンで普通に観光

コーチンはケララ州に広がる広大な水郷地帯の北端に位置し、天然の入り江や湖に恵まれた湾は一つ一つが青い水溜りに見えなくも無い

この地は古くからポルトガルやUkの植民地として潤い、今でもかつての植民地跡独特の雰囲気を残す。カラフルな石造りの建物にはめ込み式の窓、ドミノのようにきちんと整備された道路、この文化の香り漂うお洒落な町では、インドを4ヶ月以上旅してインド色に染まった自分にはなんだか街が、自分を拒んでいるようによそよそしく見えてしまう

さて、この街の移動は少々ややこしくて、そもそもがケララの州都という事で街自体が中々大きいのに加えて、中心地のエルナクラムエリア以外は全てフェリー移動が必要となる離島にある

地区は大きく分けて3つあり、インド内地にあるエルナクラム、その隣にある謎の島、そしてさらにその奥にあるフォートコーチンエリア。観光資源の殆どはこのフォートコーチンエリアに集中してて、必然的にゲストハウスやバーなどもこの地区に集中してる

もちらろん俺たちもそこを目指すことになったんだけど、朝からまたベノとのバトルを楽しまなくてはいけなかった

フォートコーチンに行くにはまずは港に向かいそこからフェリーに乗らなくてはならなかった。駅からフェリーまでの距離が2キロ程度だったので俺が歩く事を提案したら、ポールはどっちでもいいと言い、ベノがまたわけのわからない事をぼやき始める

俺「近いから歩きたいんだけど、それでいいか?」ベノ「いやヒデよく考えてみてくれ、俺たちは荷物があるんだぞ、なければ楽勝だけど今はきついだろ」

俺「じゃあベノは歩けないんだな?」ベノ「いや歩けないとはいってないよ、でも君はわかってないよ。みろこの温度、立ってるだけでも汗が滴ってくるじゃないか。必ず途中でバテルぞ」

俺「俺はなれてるから楽勝だよ、いつも歩いてるし。でもベノが歩きたくないならリキシャに乗ろうよ」ベノ「いや、歩きたくないとはいってない。ただ途中で必ずバテって言ってるだけだよ」

俺「ベノ!!お前は歩きたいのか嫌なのか?どっちだ?頼むから話をややこしくするな、yesかnoだけで答えろ。お前に従うから」ベノ「いや、だから嫌ではないよ。皆が歩きたいなら歩くよ」

俺「OK 答えはYESなんだな?よし歩こう!」と、言った瞬間にベノの顔が今にも豪雨になりそうな程曇った。・・・・・・なんて面倒くさい男だ

俺「OK ポール!!リキシャを拾うぞ!!」 「了解!!」やっと終わったかというようにポールは元気に返事を返す

ベノは何か言いたそうだったが俺が無理やりさえぎり何も言わせなかった

たった2キロの移動で、しかも移動する前のこの一晩中うねる大波に揉まれていた様な心身の疲労感は一体なんなんでしょうか!?

リキシャをひろい港まで5分。船に乗るときも買ったチケットがなぜか既に発車したフェリーの物で、ここでもベノの屁理屈攻撃が炸裂

でも、今度は俺にではなく港のスタッフに。さすがのインド人もベノの屁理屈攻撃は堪えたのか、無効になったチケットのまま船に乗る事ができた。この時だけはグッジョブである

ひたひたと無限に波打つ大海原をフェリーは小さな島を巡りながら、フォートコーチンを目指していく。フェリーの乗客は殆どがインド人で、恐らく地元の人たちの島間の移動の普段の足として使われているのだろう

フォートコーチンに着くとまずゲストハウスを探すわけだけど、今回は港から近くても口は出さずに黙ってリキシャに乗った。これ以上今日はベノの屁理屈に耐えられそうに無かったからだ

リキシャにゲストハウスがかたまってる地域まで連れて行ってもらい、降りようとするとゲストハウスを紹介したいと言って来る

もちろんコミッション狙いなのは明確なので断ろうとすると、ベノが勝手にお願いしてるし

俺「ベノ!!余計なことするな!!そんなの必要ないだろ?俺たちだけで探すぞ!!」ベノ「折角彼が探してくれるって言ってんだからお願いしようよ。ここは知らない土地なんだし」

俺「ベノ!!お前はアホ~か?そんなのコミッション狙いに決まってんだろ!!あいつの紹介する宿に行ったらこっそり宿代に上乗せされて紹介料取られるんだよ。ここはそういうこすい国なんだよ。頼むから面倒なことしないでくれ」ベノ「俺はそうは思わない」 ・・・何を根拠に・・・・

俺「おいポール あのアホを何とかしてくれ。俺は彼の暴走をこれ以上止める自身がないよ。でもコミッションは払いたくない」ポール「なんともならんな。でも俺もコミッションを払いたくないと言うところでは意見は同じだ」

俺「よし決まりだ。あいつは放置して俺たちだけでゲストハウス探すぞ」と、言ってリキシャにとっとと金を払い、まだリキシャと話しているベノを放置して俺たちは勝手に歩き始めた


 手ごろなゲストハウスは簡単に見つかった。俺たちは基本的に長距離移動の後はビールで無事到着のお祝いの乾杯をするんだけど、この日はベノのお陰でずた袋のようにボロボロに疲れていたので、腹いせにインドでは高額な700ルピーのロブスターを頼んで一人で食ってやった



夕陽を写し込んだ海が、粉々に砕けたガラスのようにぎらぎらと夕陽を反射している。その砕けたガラスと同じ数くらいのインド人。小さな波が水際を弄んでいるらしく、長い線が白羽のように光っては消える夕方のインドのビーチ


 この地域伝統の漁法チャイニーズフィッシングネット

石をぶら下げた綱の重みでネットを引き上げるからくりは圧巻だが、今では完全にただの観光ように成り下がっている模様だった


かつてのコロニアルな雰囲気が漂う石畳の連なるこのエリアも、今ではただお土産屋が軒を連ねているだけの観光エリア

俺たちは特に特別なこともしなく、この街では皆がやっているように、普通に観光を楽しみました

あれ以来ベノも大人しくなり、ストレスを溜めることなく数日観光を楽しんだ後、次の街へと向った



2014年3月10日月曜日

ごったごたの移動

時は満ちた。1月5日、ようやくハンピを出る列車のチケットを手に入れた俺たちは、まだ家中の誰もが寝てるような時間にリキシャをつかまえてホスペットの駅へと向った

まだ人の息の混じっていない清潔な朝の空気のなか、俺たちを乗せたリキシャは街頭どころか車のテールランプすら見当たらない道路をただひたすらと駅へと走らせた

駅は相変わらずロータリーにもホームにも構内のロビーにも布を引いて夜を明かしているインド人が転がっている

俺たちは駅の掲示板で自分達の列車や発着ホームを確認すると、まだ時間は一時間ほど余っていたが、そのまま自分達のホームに向った。朝の明るみが果てしない当方からにじむように広がり、ホームの間にゆっくりと光を落としていく。長い長い移動が始ったのだ

俺たちはここから一気に南インドの南西に位置するコーチンにゴアを経由して向う手筈となっていた。ゴアでテクノパーティーに参加して朝まで踊り明かしたいって話もしてたんだけど、この時期はとに角宿代が高いという話を他のツーリストから聞いていたので、その計画はドイツまで持ち越して、今回はパスする事にしていた

列車は朝の6時発で夕方の4時にゴアに到着、そこから2時間のトランジットの後、夕方の6時発の列車に乗り次の日の朝にコーチンに到着する、約24時間前後の移動

ゴアまでの列車の旅はあっという間だった。俺はPCで映画みたり音楽聴いたり、ベノは本をよんでポールは景色をぼーっと眺めて、皆それぞれしたい事をして特に会話もせずに、邪魔をしてくるインド人もいなく、午後は淀んだ深い川のようにゆっくり静かに流れていった

ゴアについてからはリキシャに乗って一度街に出てから夜に備えてレストランで夕食をとって再び駅まで戻った。ここでもベノの事で揉めたんだけど、長くなるので割愛!!

2本目の電車はナイトトレインとなるので、寝台席を取ったんだけど、今回は3Aじゃなくて普通のスリーパー席

問題はここからで、最初は3人の席は同じボックス席の中という話だったんだけど、席は近いものの皆バラバラ。そして一人分の席だけボックスから外れたサイドシート。何が問題かというとこのサイドシートは他のシートに比べると少し短いのだ。当然のことながらポールの足は納まらないし、身長が185あるベノもにも少し窮屈。そして俺ならギリギリ納まる。

しかしである、最近パックセーフをなくして以来、俺は防犯も兼ねてバックパックをベッドの上に載せて枕にして一緒に寝るようにしていたのだ。そうするとバックパックの分のスペースがあるので俺でも体がおさまらなくなるのだ。そうなると一体誰がババを引くのかという問題になってくる

体が長すぎるポールは当然のように一番上のアップシートに寝そべり知らん顔。残った俺とベノでバトルとなったのだ

最初は当然のように短いシートがあてがわれたが、バックパックの事を説明した

するとベノは「バックパックを下に置けば問題ないだろう?」「いや、大事なものがいろいろと入ってるから下には置きたくないんだ」

ベノ「誰も盗んだりしないよ」「ここはインドだぞ!!まだろくに旅もしたことないくせに良くそんな無責任な事が言えるな??もし何か盗まれたらお前が責任とってくれるのか??」と、俺はすこし興奮気味で言い返した

ベノ「鍵をかけとけば大丈夫だよ」「そんな事聞いてない!!質問に答えろ!お前の言うとおりにして何か盗まれたら責任とるのか聞いてるんだよ!!」

すると知らん顔していたポールが上から「ベノ、彼の言うとおりだ。おれ達にそんな責任取れるはず無いだろ。人の荷物の管理のし方にまで口を出すべきじゃない」 ベノ「じゃあ誰があそこで寝るんだよ」

上でのん気な顔をしてるポールも引き摺り下ろしてやりたかったが、さすがにポールをあそこに押し込んだら、体育座りで寝る羽目になるので、結局俺とベノの言い争いにならざるをえなかった

それに何よりムカつくのが、ベノの物言い。回りくどくて理屈っぽすぎるのだ。ストレートにシンプルに言えばいいのをあーでもないこーでもないと関係ない話まで織り交ぜて言って来るので、次第に背中を走っている神経の束を逆撫でされたようにイライラしてくる

その上2人とも下手くそな英語で言い合いをしていたので、お互い段々言ってる事がわからなくなってきて、バトルは苛烈を極めていった。ベノはたまにドイツ語になるし

俺が切れて「じゃあ勝手にしろよ、そんなにそこで寝たいならどうぞゆっくりといい夢でも見てくたばっちまいな!!お休み!!」と言って、短いシートの方に荷物を移し出すとベノが「そんなに熱くなるなよ」・・・誰が熱くさせてるんだ? 

自分の物言いが人をイライラさせることに全く気づいてない様子のベノ君 

更にベノは「そんなに怒るなよ、わかったよ。俺がそっちで寝てみるよ。寝てみれば意外と寝心地が悪くないかもしれないし」と、急に大人になるベノ

恐らく彼に最初から悪気は無かったのだ。ただあまりにも回りくどい言い方に俺が勝手にいらいらしてバトルになってしまったのだ

俺は別にじゃんけんとかで決めてくれても良かったのに。ドイツにもちゃんとじゃんけんの文化があるのだから。ちなみにドイツでは「シュニック シュナック ニュノッグ」と、言うらしい

それでもこのイライラした気持ちで仲直りする気にもなれなく、空気の悪いままベノが短いベッドをとり、ようやく全員とこにつくことができた。周りをみると他の白人ツーリストがドン引きの顔でこっちを見ていた

インド人が外で怒鳴りあいをしているのは日常の光景だろうけど、日本人とドイツ人が下手くそな英語で喧嘩してるのはきっと彼等には始めての光景だったに違いない

しかし、ごたごたはこれだけでは終わらなかった

真っ黒なインクをぶちまけたような夜更けに、ベノがいきなり俺を叩き起こしてきた。

まだ昨日の事を根に持っているのか?なんて奴だと思っていると、俺に列車のチケットを出すように言ってきた

「なんでそんなものこんなクソ遅い時間に必要なんだよ、チケットのチェックならとっくにおわってるだろ?なんか俺に恨みでもあんのかベノ?」 「俺のベットの前にいるインド人を見ろ。あいつが自分の席だって言い張るから今揉めてんだよ、それでチケットが必要なんだ」

確かにベノのベッドの前には恰幅のいいインド人が携帯電話で誰かと話しながら立ちはだかっている

素直にチケットを出してベノに渡すと、ベノはチケットを持って自分の席に戻って、電話で話しているインド人に強い口調で主張を始めた

「これが俺のチケットだ。よくみろ!!次はお前の番だ!!お前言ったよな?チケット持ってるって!見せてみろよ」 インド人「あー悪かった 俺の勘違いだ ここはお前の席でOKだ」

ベノ「良くない!!お前チケットもってるって言っただろう?見せてみろよ。こんな時間に人たたき起こして間違いでしたで済むと思ってるのか?とに角お前のチケットを み・せ・ろ」ベノにしては珍しく熱くなっている(ベノは見かけによらず平和主義者です)

インド人はたじたじで「悪かったって言ってるだろう?」ベノ「意味わかんないね!!いいからチケット出せよ」と攻めまくるベノをポールも目を覚ましたのか心配そうに眺めていた

インド人はベノの攻撃にずるずると後ずさりして、逃げるように携帯電話で話しながらどっかに消えてしまった

その後も怒りが治まらないのか、一人でぶつぶつと怒りを独り言に載せて、ラップのようにつぶやいていた

さ・ら・に その数時間後の朝、今度は俺の下で寝ていたこれまた恰幅のいいインド人に叩き起こされた

奴の主張は今すぐ起きて上の空いてるベットに移れというものだった

インド列車のボックス席は、ベッドが3段になっていて、普段は2段目のベッドは畳まれている。そうしないと一番下の席に座ることができないからだ。だから彼は起きて座りたかったから、寝ている俺を起こして上に移れと言ってきたのだ

朝はだれだって機嫌が悪い。例外なく俺も昨日の事も手伝って格別にこの日の朝は機嫌が悪かった

そのインド人に対して俺は一言「い・や・だ」と、言って寝返りをうってそっぽを向き、もうこれ以上お前と話す気はないと言う態度を示した

するとそのインド人は、そんなのおかまいなしに、ぎゃーぎゃーわめき始めた。さも自分の主張が当たり前かのように。頼み方を知っていれば俺も嫌々ながら上のベッドに移ったのに、こいつの態度はいただけない

しつこいので俺は無言で思いっきり上のベッドを蹴っ飛ばした。すると騒いでいたインド人は急に大人しくなり、風船がしぼんでいくように自分の席に戻っていった。でかいのは体だけで気はちっちゃいのがインド人の特徴。それを良く知っている俺は場を簡単におさめる方法を知っていた

しかし、自分が馬鹿だった事にすぐ気がつかされた。ベッドを蹴った衝撃で親指のつめが中ほどまで割れて、血が滲み出ていた。昨日ドン引きしていた白人ツーリストはまたかと言った顔で今度は呆れ顔

電車を降りるとき俺はポールに「もう二度とこの3人で電車に乗りたくない」とい言った「そんな事言うなよ、俺は楽しかったぜ」 俺「お前だけな!!」

 

 

2014年3月9日日曜日

年越しもハンピ?


大晦日の前日、ポールの友達ベノがハンピに到着した。バラナシから電車の中で夕陽が沈むのを2回楽しみ、更にバスの中でもう一回沈み行く夕陽を拝んでようやく到着したらしい。計56時間の移動

右足と右腕全体のタトゥーに鼻と唇にピアス、両耳には特大のボディーピアスとハードコアなルックスのベノはぐったりとしながらも愛想よく自己紹介してくれた

話してすぐ分かったが、ドイツ人にしては珍しく英語が下手くそだ。実はベノも俺たちの英語の旅に混じりたくてバラナシから3日間かけて遙々やってきたのだ。そんなわけで俺の前でのドイツ語は例えポールと話すときでさえ禁じられた。禁止したのは俺ではなくポールだけど

ベノが来た時点で俺たちは既にここに来て一週間以上が経過していた。ハンピでは特別なアクティビティーやツアーなどは用意されてないけど、探せばやる事はいくらでもみつかる

釣道具を借りて釣をする、ボートを借りて一日中川をのんびり下る、村一番の丘に登って絶景を眺めながら乾杯をする、川向こうのがけでロッククライミングをする、湖に夕陽を見に行く、バイクを借りてツーリング。。。2人でいろいろと提案しあったけど、結局それらが実現する事はなかった。俺たちはあまりに怠け者過ぎたのだ

大体朝起きると2人で朝食を近くのレストランに食べに行く。朝食と言っても時間が遅いので昼兼用で帰ってくると俺はシエスタ、ポールはその間PCの楽曲作成ソフトでテクノを作って遊んでいる。俺がどっか行けば付いて来るが、自分からどっかに行くことはほとんどない。次の日やる事を決めておいても次の日になると気が変わってしまっている。それに対してポールも文句を言わないのでだらだらとベッドの上で一日を過ごす日が増えていってしまう

そしてそれはベノが来たからといってこの怠慢な日常が変わることはなかった

大晦日も新年も特別な事は何もしていない。せいぜい大晦日に隣町にビールを買いに行って、こっそりハンピに持ち帰って皆で乾杯したくらいだ。ちなみにハンピの村に酒を持ち込んだのが警察に見つかると10000ルピーの罰金らしい。日本円で17000円くらい

そして酔って寝て、そのまま年を越した。

ベルリン出身のベノいわくベルリンの新年は狂っているらしい。そこら変で爆竹を投げまくってる奴がいるかと思えば、殴り合いが始まったり。特に理由はないが人を殴る奴がいるのだ。そしてそんな騒然とした中そこら変で薬中が倒れてて、一般人たちが大騒ぎする。そんなドイツの年越しが嫌いらしい。ベノにはお似合いだと思うんだけどね

それに比べるとここは静かで誰もカウントダウンもしなかったらしい。ちなみに村の人口は殆どが観光客で、その90%以上が白人。それでも次の年へと静かにカレンダーはめくられていった

新年もこっそりと持ち込んだビールで昼から乾杯

ベノはこんなルックスでもナースらしく、数ヶ月の休みをとってインド、そしてこのあと日本を旅するらしい。日本人の感覚からしたら、全身刺青とピアスだらけのナースが数ヶ月の休みをとってインドを旅してるって、ドラマの設定だったとしてもありえなすぎて笑ってしまう

ドイツのナースは皆そんないかれた格好してるのかベノに聞いたら、自分は特別だと言った。実際こんな奴はいないし、患者にも同じナースにも変な目で見られると。それでも普通に働けるドイツの寛容さが羨ましかった

ポールは現在19歳で丁度高校と大学の間に休憩を入れて、音楽制作に精をだしたり、旅をしたりしてんだとか。どういうことかと言うと、ドイツは日本と違って高校卒業してもすぐに進学するという文化がなく、皆その間の1~2年間は自分の好きな事に時間を使うらしい。

そしてドイツは殆どの学校が学費免除になるので、みんな高校を卒業すると家を出て働きながら学校に行って、自分で生計を立てることを学ぶ。だからポールが最初19だと知ったときは驚いたけど、若い頃から一人で生きることを学ぶ欧米文化だと心が大人になるのも早いのかもしれない。ポールと話していても、とても10以上も年下と話しているとはおもえないもんな

学費の高い日本では、学生の頃から親の援助無しに生計を立てながら自分のお金で学校に行くっていう事は、並みの努力では難しい。だから日本人の学生が他の外国人に比べると心が未熟なのもしょうがないのかも知れない。そういう場面に直面すると辟易してまうのは否めないけど・・・


新年2日目、ようやく俺たちの計画のひとつが実現した。村の郊外にトレッキングに行く

このぐーたらな空気を振り払うには誰かが引っ張っていかないとと思い、前日俺が提案して全員にアラームをかけて寝るように支持した

結果として俺一人が完全に寝坊をしてやる気をなくしていたのだが、他の二人が珍しくやる気を見せ、見事朝の10時にトレッキングに出発できたのだ

トレッキングと言っても、特にトレイルがあるわけでもなく、村から遠くの方に見える岩山を川に沿って目指すという事でとりあえず話はまとまった

しかし、話はそんなに簡単でもなく、遠くから見ると通れそうなところも、近くに来ると思いの他岩がでか過ぎて越えられないとか、川が部分的に氾濫していて渡れないとか、進んでは戻って回り道探しての繰り返しだった


 一応水浴びができる所に行くっていう目的はあったものの、ぼんやりとしたもので目的地が無いのも同然。進めないら帰ればいいと考えてはいたものの、すぐ引き返すのもあっけなさ過ぎるので、どんどん目印の川から離れた所に迷い込んでいった

途中機嫌悪そうな牛が居座って、怖くて追い越せずにぼーぜんと佇むベノ

ポール「ベノ!こっちが何もしなければ大丈夫だから早くこっち来いよ!!」「でも相手は動物、何が起こるかわからないだろう!!少なくとも言葉は通じないんだから」

俺「少なくともドイツ語は通じないだろうな!!あははは ビビッて無いで早く来いよ」

完全にビビッてしまったベノ。牛も呆れ顔で見ています



ようやく水浴び場についてご満悦の2人

俺は水が汚かったのでパス

その後ガイドを連れて滝を目指している白人ツーリストがいたので、こっそりと後をつけるも、途中で見失い滝までたどり着けず

なんだかんだで半日以上歩いたので満足して帰って来た

 次の日は一度いったところだけど、ベノがまだいってなかったし、そこから見る夕陽は格別だと聞いたので、再び村一番の丘に登った



夕陽をハートで囲んで写真を撮ろうとするベノ

センスの悪すぎるクレイジージャーマン 









この丘で夕陽を待ってる瞬間が旅のハイライトだった

 二度と戻ることのできない時間を異国の地で異国の仲間と共有する

探求とはまず開放から始る

さぁ!そろそろハンピを出ようかな

2014年3月5日水曜日

ハンピで談話

久しぶりの日記。。。この日記は多分3ヶ月ほど前のものになります・・・・

今は香港で優雅な生活を送っています。でもなんだか刺激が不足してます


朝早く寝坊したポールを叩き起こしてバス停に向った。二日連続でバスを逃すのは御免だった

ハイデラバッドからハンピの入り口の町までバスで12時間とインドにしてはそんなに遠くは無い、たったの400キロ

バスの中で新しいシスターができたポール君

わずか2時間の間に派手な事故を2度も目撃

着くころには俺もポールも一日中バスの中で体育座りしていたのでぐったり、到着間近になると着いたら最高のビールで乾杯しようって盛り上がってたのに、ハンピ自体が厳格な聖地のため肉や酒を手に入れることができずに意気消沈

ハンピ村に着くと既に真暗でゲストハウスを探すのもめんどくさかったので、前の宿で日本人に教えてもらった宿を探すことにしたが、村が狭いためすぐ見つかった

2人でたったの200ルピー。部屋は狭く貧乏大学生の下宿先のようだった。この時期でこの価格は破格だったため泊まる事にしたんだけど、宿が日本人宿だったため次の日にチェックアウトする事になった。

次の日はもっぱらゲストハウスを探すのに時間を費やしたが、なかなかポールが嵌るゲストハウスはみつからない

足が納まらないが我慢してもらうしかないです


 年末年始で列車やバスのチケットが取りにくく移動が困難になるため、自然とハンピでの滞在は長期に及んでいった

そのため観光も一気に周る事もできたけど、いそがず一日一つずつゆっくりこなしていった


 郊外の遺跡を周ったり



 村の寺院を訪れたり

朝と夕方は毎日2人でヨガとメディテーション


 俺はいつも欧米人と行動するときは昼間は一人で観光して、夜だけ一緒に飯を食う事が多かったんだけど、ポールはなぜか俺の行くとこについて来るので、殆どの時間を一緒に過ごしていた

なかでも面白かったのが毎晩夕食時に行われる難しい話

実は俺もポールも英語を勉強したくて、なるべく外人と行動するようにしていたのだ。だからちょうどいいコンビじゃないかという事で、長い間旅をする事になったのだ

だから話の内容も普段話しなれた内容は避け、少し難しめの話をするようにしていた

そして俺は前からドイツ人に聞いてみたかった事があったが、初対面で話すような話でもないので聞けずにいたことがあったのだ

「じゃあヒトラーの事を聞いてもいい?ドイツ人はそういう話を嫌がるって聞いたからいままで避けてたんだけど」「なんでも聞いてくれ、そんな事気にするドイツ人はいないよ。ただ、前にインド人にいきなりハイルヒトラー!!って敬礼されたことがあったけど、あの時はリアクションに困ったよ」

「じゃあヒトラーの事をドイツ人はどう思ってるの?日本では、確かに歴史的大罪を犯した人物として認知されてるけど、その一方で人を魅了する力や演説の上手さ、頭のきれ具合とか一定の高い評価を受けてるんだ。でもドイツではナチスに関する表現を完全に封印して、それをみだらに公にさらす者には刑罰まで下される法律があるみたいだから。もしかしたら認識の違いがあるんじゃないかと思って」 「ドイツではただの馬鹿 愚か者 それ以外形容のしようがないよ。ただ、一部のクレイジーな連中が未だにヒトラーを崇拝してるけどね」

「ネオナチの事?」「イグザクトリー!!あいつらは頭がおかしくて、アメリカ人見つけたら喧嘩を売りに行くんだ。でも、日本人は大丈夫だよ、二次大戦のときに一緒に戦ったからね」俺「そんなもん?面白いね」

「じゃあさ、日本の戦争責任者は当時の天皇陛下でドイツはヒトラーという事になると思うんだけど。日本では力は失ったものの未だに天皇陛下が存在して、ドイツのヒトラーはもういないよね。一応自殺とか亡命とかいろんな説があるけど、もし生きてたとしても今のドイツを見てる限りだと絶対に排斥されてたはずだよね?この違いは何故かな?もちろん当時の天皇陛下は軍のただの操り人形だったのかも知れないけど、一応公の戦争責任者だったんだから、完全に排斥されててもいいはずなのに」

ポール「それは俺たちドイツ人と日本人が追った傷の違いだよ」「傷の違い?日本人は恐らく原爆と東京大空襲が最大の傷だけど、ドイツとの違いって何?」

「それはやったものとやられたものの違いだよ」「ああ!!なんとなく君の言いたい事がわかってきたよ、続けて」

ポール「ナチス最大の失態は君もしってるよね?」「ユダヤ人虐殺のことだろ?」

「そう。他にも戦争が終わった後ドイツは様々な困難に見合うことになるんだけど、それは全部やられたことなんだ。受身なんだよ。でもユダヤ人の虐殺はやった事なんだ。想像できるかい?ヒトラーの命令でやりたくもない虐殺を無理やりさせられた人たちの気持ちが?俺たちは自分達自身の手でとんでもない事をいけないとわかっていながらやってしまったんだ。だからこそ必死でその血で染めた手を綺麗にするためにナチスを忌み嫌い完全に排斥しようとしたんだよ。それが君達の国との違いさ」 

俺「なるほど。確かに原爆も東京大空襲も受身だね。受けた傷の種類が違うという意見も頷けるよ」

ポール「受けた傷の種類が違えば、その後の展開も変わってくるってことさ」

俺「まるで昔のUKとフランスみたいだね。フランスは革命で王様を殺して、UKは一応権力だけ奪って、シンボルとして残した。その結果二つの国から同じ三権分立を根幹としながらも大統領制と議院内閣制という2大統制システムが生まれた」

ポール「ははは その例えも面白いね」

英語で道を尋ねるのがやっとだった一年前ではこんな内容の話しなんてできなかったし、しようとも今まで思わなかった。だけど、してみると以外にできるもので、しかも凄く面白い

ポールもこんな話を外人と英語でしたのは初めてで面白かったらしく、その後も俺たちは毎晩テーマを一つ決めて、辞書を片手に真面目な話を何時間も続けた

そして大分暮れが近づいてきていた。。。。