2014年5月30日金曜日

天空を駆ける鉄道



俺が泊まっていたYMCAは南京虫の巣窟だった。しかも、電気を消すと行動を始めるのが普通だが、どうも相当腹が減っているのか電気をつけていても襲ってくるアグレッシブさ

お陰で一晩中南京虫を潰すのに必死になりすぎて一睡もできなかった

次の日、レセプションに詰めていた初老の男にクレームを入れると、他に空き部屋は無く、部屋の交換ができないから、すぐに殺虫剤を買ってきて対処すると言った、その対応は悪くない

今までは、お前が連れてきたんだと人のせいにしたり、それは蚊だといいはり、一向に認めようとしなかったり、酷い宿は数多くあった。それに比べればなかなかまともである

自分でやらないと気がすまない俺は、宿の男が買ってきた殺虫剤だけをもらって、自分のベッドの隅から隅まで、部屋の隅から隅まで、余ったらバックパックにもたっぷりとかけた

しかし、その効果はなく、その夜も南京との仁義無き戦いは果てしなく続くインドの荒野のように続いた

結局これが原因でキャンディを次の日出ることにした俺は、それをジュリアンたちに伝えた

すると彼らもこれから列車のチケットを買いに行くところだった

次の目的地は俺も、彼らもヌワラエリア、スリランカの紅茶の里だ

なので俺の分の切符も買ってくるように二人に頼んだ

しかし、数時間後にまるで今さっき喧嘩したようなふくれっ面で戻ってきた二人は切符を買っていなかった。訳を聞くと鉄道員にぼったくられそうになったらしい

切符の値段を聞くと一人400ルピー。3時間程度の移動で400ルピーはおかしいと思ったジュリアンたちは、カウンターの後ろに貼ってある料金表をみつけ、指を刺して指摘しらしいのだ

するとどうだろうか?指摘された鉄道員は背中で料金表を隠してしまい、400ルピーと譲らなかったらしい。この国は腐っている

結局俺たちは次の日、乗車直前に切符を買った。買う際に値段を聞かずに、ヌワラエリアまでの普通席と言って120ルピーを先に出したらあっさりと買う事ができた

この国では料金を聞くとぼったくられる。なんでも買う前に正しい料金を知っておかないといけないのだ。それ自体がとてつもなく疲れる腐った国である

国は観光腐りしていても、鉄道からの景色はインド同様素晴らしかった

キャンディが始発の俺たちが乗った鈍行列車はまだそこまで混んでおらず、自由席でも十分に席を確保でき、俺は2人とはちょっと離れた窓際の席についた。キャンディからヌワラエリヤまでは約3時間の鉄道の旅。距離は大したことないが、山の中を走るのでどうしても時間がかかるらしい


列車は発車すると、紙芝居のように次から次へと忙しく景色をめくっていった。キャンディの街中を抜け、太陽に向って大きく両の手を広げた森の中に入り、平原に出ると、のんびりとした感情を持ってうねっている優雅な曲線の丘を横目に、眼前に新緑が美しい山が徐々に迫ってきた

列車は間もなく山の谷間に進入していった。すると両サイドには既に茶葉の大プランテーションが広がり、谷一面が火口湖のようなエメラルドグリーン一色に染められており、谷から吹き下ろす風に首を右に左にもたげている

その谷に広がった大プランテーションを一目見ようと、乗っていた観光客は皆一様に席を立ち始めた。席を立ってうろうろするもの、座席でスナックを食べ始める現地人、入り口に身を乗り出して写真を撮る者、居眠りをする者、車内はまるで園バスのように秩序がなくなってきたが、それはそれで面白い。客は自分なりに楽しんでいるのだから。それを迷惑に感じるような者もいないようだし


 列車は谷間を一時間ほど走ると、今度はその谷の左サイドをナメクジのようにのそのそと登っていった

景色はどんどん開け、やがて谷の左側の尾根に飛び出すと、丘がいくつもの起伏となって一連に連なり、その全てが茶葉で覆われていた。

尾根から見下ろすと、豊かな海のようにも見える一面の茶畑



車窓からの眺め




列車から降りると、ヌワラエリヤの町までは更にローカルバスに乗らないといけなかった。バスは丁度列車から吐き出された観光客を全て乗せ終えると、重苦しいエンジン音と共に発車した

バスに乗っている時に、体がバスに入りきらなくて、体半分外に飛び出た上体で乗っていた中国人のヤンと世間話をしてて、その流れでヌワラエリヤに着いてから、部屋をシェアする事になった

ジュリアン達も同じホテルに泊まる事になったが、ヤンは急ぎの旅らしく、次の日には街を出ることになっていたので、既に16時を周っていると言うのに、リキシャをチャーターして大急ぎで観光に出かけてしまった。そのため俺たちは差ほど仲良くなる事も無く、ヤンは次の日の朝発って行った

ヌワラエリヤの町は、中心街に小さなマーケットや銀行、スーパーなどがかたまっていて、中心街から500メートルも外に出ると、民家がポツポツとあるような、小さくまとまって歩き易い町
町はそれなりに小奇麗に整備されていて、すこし離れたところには公園を併設した湖などもある

三人で湖に行った時にジュリアンが一言「どうせ人口湖だろ」と、ぼそっと言った

彼のこの言葉の「どうせ」には、この町も観光客用に整備された、造られた町だと言う皮肉がこめられていた。確かに湖自体も人口湖のようだったし、町外れには外国人向けのレストランが目立つし、ゴルフ場まであった。ジュリアンの皮肉も実に的を得ているといわざるを得ない

湖には日本でもお馴染みのアヒルの足こぎボートが20艘程浮かべられていて、時間貸しをしている。俺はジュリアンとどうせまた外国人と現地人の値段が全然違うんだろうと言う話になり、験しに値段を尋ねてみた

値段はなんと2500ルピー(約2000円)。日本でもせいぜい数百円で乗れそうなものだ。現地人用の値段も聞いてみたが、料金は同じだと言ってがんとして譲らなかったし、その煩わしそうな対応の仕方を見ていると、同じような質問をいつもされているようだった

近くのカフェで再度値段を聞くと、現地人は800ルピー(640円)。それでも高いが、外人用の値段とは確たる差である

他にもこの町、短い滞在中にうんざりするような事はたっぷりあった

ジュリアン達と別行動をとっていた時の話である

外国人向けのレストランはとに角高いので、なるべく子汚い店構えのローカル食堂を探して、その日の夕食をとることにした

スリランカ人の一般の食事は、基本的にはライスアンドカリーと呼ばれる、ライスに数種類のカレーと、野菜の小鉢が数種類付いて来るセット料理だけだ。この料理が一番安くボリュームもあり経済的なのだ

俺はその子汚い食堂の恰幅のいい中年の女に値段を尋ねると、顔を宙に向け暫しの間を空けてから250ルピーだと言ってきた

カレーアンドライスの値段は現地価格で100~150程度が平均。もちろん高く言ってきているのは分かっていたが、子汚いローカル食堂をこの町で探すのも一苦労だったので、この日はその値段で手を打つことにした

一応フィッシュカリーにしてくれないかと頼んでみたが、魚がないとの事で断られた

席について10分後に運ばれて来たのは、ガイドブックの見本とは似ても似つかない、家庭の三角コーナーに溜まっている残飯を、白米にぶっ掛け様なお粗末なものだった。味も見かけどおり。相場より高いのだからせめて味くらいまともであって欲しかった

気になったのはその残飯丼の頂上に載っていた小指くらいの茶色い塊?ためしに食べてみたが、水分が完全にとんでいて、ぱさぱさしすぎてなんだったのかわからない

そしてうっとおしいのはここからだ

会計の書かれたレシートをみると450ルピーと記載されている・・・

俺が「このレシートはなんだ?」と、尋ねると、デブ婆は「会計よ、450ルピーね」

「は?カレーアンドライスで250ルピーだろ?最初と随分値段が違うようだけど、どういう事?」と、あくまで冷静に聞いた。すると「あなた魚欲しいって言ったでしょ?だから魚をつけて450ルピーになったの OK?」

何がOK?だ! 全く持って意味がわからない。恐らくあのゴミ丼の上に乗っていたダニのクソみたいな物体を魚だと言っているのだろう。仮にあれが魚だとしても200ルピーの値上がりは法外だし、こちらに何も言わないで勝手に会計を変えるのも、正に人知を超えた外道の行ないといわねばならぬだろう

俺は一言「払わない」と、言い放った。会計を元通りに書き換えるか、金を払わないか、どっちかだと、静かに言った

するとババアはみるみる表情が変わり始めた。髪の生え際が抜け上がるばかりにドギツイ静脈を額にうねらせ、目には角が生えてきた。そして醜い言い争いが始るかと思ったが、俺はなぜか腹があまり立たなかった。いつもなら頭に血が登りそろそろカウンターを蹴飛ばすころだが、あまりのババアの強欲振りと、それから出てきた理不尽さが手伝って、この目の前で騒いでいる生き物が滑稽で可哀想に思えてきた

だから俺は無表情にただ「払わない」と、会計を拒み続けた

その間もババアは泥棒だとか、警察呼ぶとか、わめき続けたが、俺は何も言わず、ただ冷たい目でババアを哀れむように眺めているだけだった

さっきから傍観を決め込んでいた現地人の客はババアが一人で興奮してる様子を見て、笑い始め、後ろで作業をしていた旦那と思わしき男も笑い始めた

これで、この中にババアの味方をする奴は身内ですらいなくなった

形成が不利だと判断したか、声が少し小さくなったが、まだ諦めていないようだった。見かねた旦那と思わしき男が、俺に、もう250でいいからねと、笑いながら親切そうな顔で言ってきたが、俺は無表情のまま「当たり前だ」と、一言静かに言った

それでようやくババアも諦めたのか、「とっとと250ルピーよこしな!!」と、乱暴に言い放った

俺はそのまま金を投げてやりたいとこだったが、生憎1000ルピー札しかなかった。そのまま渡すのは危険だと思い、釣を先によこすように言った

するとババアはまた怒り始め、その怒った勢いで外に釣をかき集めに行ってしまった

数分後に戻ってきたババアから先に釣を受け取ると、1000ルピを渡し「greedy pig」と一言言って店を後にした

後ろからはモンスターの断末魔のような叫び声が、スリランカのねっとりした空気に絡まって耳障りに響いた

その帰りに近くのレストランに水を買うためによった。会計の際、水が少し高かったので、嫌味で「これは外国人専用の値段なんだね」っていうと、レジの若い女が「それは冷えてるからです」と、いうので

「じゃあそこにあるぬるいやつくれる?もちろん冷えてないから安いんでしょ?」と、カウンターに並んでた、冷えてない水を指差して言って見た

「いや、同じです。ここはレストランなんで・・・」 「あれ?でも今冷えてるから高いって言わなかった?嘘ついたの?」

「いえ、嘘ではなく・・・」「じゃあなんで冷えてるから値段が違うっていったの?説明できる?」

女は黙ってしまった。もちろんレストランで買えば通常より高いのは当たり前だし、そんなのはわかっていた

ただなんて答えるか聞いて見たかっただけだ。とはいえ、少しいじめ過ぎたかと後で反省しなくも無かった

他にもあげればキリが無いが、俺たち3人でバスに乗って紅茶工場の見学に行った帰りの話

バスの料金が行きと違うので、もちろん俺たちはその事を指摘したが、バスの運転手は料金は同じだと言うばかりで譲ろうとしない

バスに乗っていた他の白人ツーリストも一様に騒ぎ始めた

するとドライバーが証拠はあるのか?と、言うので、ジュリアンがとってあった行きのバスチケットのレシートをドライバーに見せた

ドライバーは表情一つ変えずに、じゃあお前はこの料金でいい。レシートもってない奴は俺の言い値を払え

さすがにこの横柄な態度には乗客全員が激怒し、全員でバスのドライバーに詰め寄り、味方のいないドライバーはふてくをされながら諦めざるを得なかった

こんな事が毎日続くわけです・・・・




茶園で飲んだスリランカティー

この工場でもやはいり観光客価格

なんとスリランカティーが100gで2000ルピー(1600円) あのダージリンでさえ中級クラスで精々100gで500円程度だ

スリランカティーはどっちかというと、質より生産量を重視しているのだから、質を重視しているダージリンティーより高い理由がない

その証拠に現地人が行くようなスーパーで、同じくらいの質の紅茶が200g200ルピーで売っていた

確かにパッケージはとても立派だった。その見かけに騙されて、紅茶を知らない観光客が記念に買っていくのだろう

俺の目の前でも、この1パック2000ルピーもする紅茶を大量に買い占めていた韓国人がいたのだから

2014年5月17日土曜日

キャンディから始る、日に日に募るスリランカへの不信



朝、ゲストハウスの裏にある、誰もいないビーチを散歩した

沖にはスポーツ用のヨットが何艘か浮いていて、湾曲したビーチの向こう側には、無表情なコンクリートの建築郡の首都のコロンボが、柔らかく粉のように白っぽい朝の陽ざしに照らされて、うっすらと見えていた

ゲストハウスに戻ると、ジュリアンカップルが荷物をまとめて、ロビーで朝食をとっている最中だった

「どこ行くか決めた?」「いやまだ決まってないんだ、ここはチェックアウトしようと思ってんだけど」

「俺はキャンディに行く事にしたよ、ここからそうは離れていないし、列車のターミナル駅にもなってるからどこ行くにも便利らしいから」 「そうなんだ、実は俺たちもそこに行く事を考えていたところなんだよ」

「そうなんだ。じゃあ一緒に出ようか?俺朝まだ食べてないからちょっとまっててよ」「ごゆっくり~」

とういうと、俺はトースターでパンを焼いて、バターに砂糖をたっぷり塗ったやつを2枚平らげて、パッキングを済ませて彼等と宿を出た

キャンディはスリランカの古都らしく、なにがあるのかは分からなかったが、とに角ガイドブックを開けばトップページに出てくるような、スリランカでも人気の観光地らしい

交通の便もいいから、あとからいくらでもフレキシブルに計画を立てれるし、なによりもキャンディという名前が覚えやすくて良かった

バスターミナルに到着すると10以上のバスの発着ゲートがあった。近くにいた人にどのバスに乗ったらいいか教えてもらい、 俺たちは止まっているバスに乗り込んだ

30分後にバスはキャンディに向って出発した。出発するとチケットコンダクターが乗客から行き先別に乗車料金を徴収し始めた

俺たちのところまで来たチケットコンダクターは運賃の他に、荷物量を一人50ルピーずつ請求してきた

うっかり払ってしまったが、おかしいと思ったのは俺だけではなく、2人とも不振極まりない顔をしていた

俺「俺うっかり無意識で払っちゃったけど、あれ完全にぼったくりでしょ」マエバ「私もそう思う、前に座ってるおじさん荷物預けてたけど、運賃しか払ってなかったし。私達が払った運賃だって正規の料金なのか怪しいところね」

とはいえ、払ってしまったものはしょうがない。払う前に突っぱねるのは簡単だが、払ってしまったものを取り返すのは並大抵のことではない

ここは貧乏なコンダクターに恵んでやったと思って諦めるしか無いのだろう。こういうコスイ所はインドそっくりである

数時間バスに揺られ、俺たちはキャンディの中心地から10分ほど離れた所にある、バスターミナルで下ろされた

3人で大きなバックパックを背負って街中を歩く姿は、アジサイの花の上を這い上がるカタツムリのように見える。その中でも俺のバックパックはひときわでかい

キャンディの中心地に入っていくと、ネイキッドバイクのように中身むき出しの露店が歩道を半分くらい占領していて、その半分の歩道は行き交う人で埋まっており、いい感じのごたごた感が出ていたが、歩くのにそれほど苦労はしなかった

恐らくウンコやゴミがインドのように落ちていないからだろう

街中からはききなれている車のクラクションの音も聞こえてこないし、道路を渡ろうとすると止まってくれる車までいる。そして、もしそこが横断歩道なら車は必ず止まる。何より驚いたのが、信号がちゃんと機能してるところ

機能しているとは、ただ稼動している、という意味だけではなく、みんなしっかりと信号を守っているのだ

インドから来ると、ある意味カルチャーショックを受ける

姿かたちはインド人そっくりでも、こうしてみると、スリランカは島国特有のゆとりのような物が感じられる。こうなってくると多少物価が高いのもしょうがないのかなとも思ってしまう
 ゲストハウスの目星はついていたが、レストランの看板に出ている食べ物の写真を見ていたら腹が減ってきたので、俺たちは少し早めのランチをとる事にした

オーダーのさい、ビールを頼もうとしたんだけど、置いてないから隣で買ってくるといいと言われた

言われたとおり隣の酒屋に行くと、ビールはあるが冷えていないという

俺が冷えたビールが欲しいと言うと、店先にいた色が黒く細い男が、ここにはないからある所まで案内してやると言ってきた

怪しいとは思ったが、こういうトラブルには慣れてるので、いざとなれば追い払えばいいと思ってついていってみる事にした

男の後を追って歩いていくと、細い路地の様なところを5分ほど歩かされた

こんなに遠いところまで案内してくれるなんて、何か裏があるかめちゃくちゃ親切な人かのどちらかと思ったが、もちろん俺は前者の方を疑っていた。それと同時に何が起こるのだろうかと、少しわくわくもしていた

別にトラブルが好きなわけじゃないけど、何も起らない旅というのも退屈なものである

酒屋につくと、インドでもお馴染み、カウンターが留置所のような鉄格子になっていて、そこに50センチ四方の小さな窓が開けられており、そこに大の男達が右手に現金を握り締めて、顔を突っ込むようにして群がっていた

酒を手にすると、それを大事そうに胸に抱えて、一人また一人とカウンターの小窓から顔を抜き去っていく

俺も同様に小窓に顔を突っ込んで値段を聞くと、一番安いビールでワンボトル380ルピーだという

値段は良く覚えていないが、前日買った値段より大部高いような気がしてならない

俺が、連れてきたくれた男に高くないかと尋ねると「そんな事はない、それがローカルプライスだ」

その言葉を聴いて俺はすぐにピンときた。ローカルプライスがあるという事はそれ以外の高い値段設定があるという事だ。そしてこちらがその事に対して言及していないにも関わらず、向こうからローカルプライスだと押してくる場合は、十中八九外国人からぼったくるための高い値段設定なのだ

俺が試しに店の男に聞くと「それ本当はいくらなの?俺昨日買ったけど、もう少し安かったと思うよ」すると店の男は「値段はそこにいる男に聞いてくれ」と、取り合うとしないし、俺が店員とやり取りを始めると、俺をここまで連れてきた男は慌てて、「そいつは英語が喋れないんだ、値段なら俺に聞け」。。。。これでようやくはっきりした

この男は親切を装い、他の酒屋まで俺を連れて行き、そこで本来の2倍近く高い値段でビールを買わせて、その利鞘をむしりとろうと言う、醜悪極まりない魂胆だったのだ

狙いがわかれば話ははやい

俺は一度窓から顔を抜くと、男の方に向き直り「どうやらお前のお陰で高くなってるみたいだけど・・・」「そんな事はない、これはローカルプライスなんだ」

「第一ローカルプライスってなんだよ?とりあえず帰ってくれるか、お前がいると買えないから」「折角ここまで連れてきてやったのに、帰れってのはあんまりだろ」

「連れてきたのは金のためだろ!!この金の亡者が。いいからとっととうせろ!!」「お前が失せろ」 

この後暫く汚い言葉の投げが合いが続いたが、気の短い俺がそんな口喧嘩に長々と付き合えるはずも無く、数分後には男を突き飛ばしていた

突き飛ばされた男はそのまま捨て台詞を吐いて去っていった

そのままの勢いで、今一度カウンターの小窓に顔を突っ込み、カウンタにーに手を乱暴に叩きつけながら値段を聞くと、200ルピーだと流暢な英語で帰って来た

俺は納得して、400ルピーで2本のビールを買ってジュリアンたちの待つレストランに戻った

人の親切には裏があるというが、その言葉を信じたくなくとも、やはりこの国でも常にそれを頭の片隅においとかないといけないらしい

しかし、これはこの国に対する疲れの始りに過ぎなかった


 小高い丘からのキャンディの街

この街でゲストハウスを探すのに俺たちは全身の骨を複雑骨折するような思いだった

いくら探しても2000ルピー以下のゲストはないし、郊外まで行けば1500ルピーのゲストハウスもあるのだが、町まで出るのに1時間は歩かないといけない。そこでリキシャを使えば結局2000ルピーのゲストハウスに泊まってるのと変わらない

結局俺は一旦ジュリアンたちと別れ、街の中心地にある困ったときのYMCAに言ってみることにした

一回が体育館になっているYMCAホテルでは、その時は中学生くらいの空手クラスが開催されていた

受付で値段を聞くと、ダブルが2000るぴーでシングルが600ルピー

スリランカでは破格の600ルピーである

しかし、この日はシングルがフルでダブルしか空いていないという事だった。どうせどこ行っても2000以下じゃ泊まれないし、次の日シングルが空いたらすぐに移れるとの事だったので、この日は2000ルピーのダブルの部屋に泊まることにした

そして、これはこの日別行動してたジュリアンが、仲良くなったスリランカ人から仕入れてきた情報なんだけど、スリランカ人はゲストハウスでは大体300ルピーくらいしか払っていないらしいのだ

つまりどこのゲストハウスも6倍以上の値段を外国人に吹っかけてる事になる

他にもスリランカ人は路上喫煙が禁止されてるが、外国人は構わないとか、よくわからない規則もあった

ちなみにこの街一番の観光資源は、仏陀の「前歯」が祀られているという寺院

名前は忘れたが、なかなかに立派な建物だったので、入ろうとしたら「外国人 2000ルピー スリランカ人 0」と、いう料金ボードを見て、とっとと立ち去ったのを覚えてる

外国人の方が料金が高いというのはまだしょうがないと受け入れることもできるが、値段の開きがまりにも酷すぎる

高々「前歯」を見るために一泊分の料金を払えるだろうか????

後でジュリアンたちに聞いても、やはり行かなかったみたいだし

俺が前歯ごときに2000も払えるかと言ったら、マエバが大笑いをしていた


                    寺院前の花や

なんとなく、段々とスリランカという国が見えてきた

やはりこの街にもローカルレストランは殆ど無く、街中にあるスーパーマーケットの物価も日本並みに高い

客はもちろん外国人しかいなかった

綺麗な町ではあるんだけど、まったく地元の臭いのしないこのまちは、まるで蝋で作られた偽物のおもちゃの街を歩いているような気分だった

俺たちは誰かにそこに放り込まれて、上からその誰かの見世物になっているのではないか?まるで虫かごに入れられたカブトムシのように。。。。全てが観光用に姿を変えてしまったこの街を、本当に古都と呼べるのだろうか?

ジュリアン達も全く同じ事を感じていた

不振はこの日から日に日に大きくなっていった





2014年5月14日水曜日

行くぞ!!スリランカ!!

はい、毎回久しぶりのブログです
今はアンナプルナから久しぶりにポカラに帰ってきてのんびりしてます
ブログは既に4ヶ月くらい遅れてますが、今日からがんがん書いて遅れを取り戻します
毎回同じことを言っておりますが、今回はマジです





何も決めていなかった。ホテルどころか空港からどこの街に行くかすら決めていなかった

大概は何でも揃う首都にでも行くのが普通なんだろうけど、毎回のパターンにも飽きてきていたので、空港からそう離れていない小さな町にでも行ってみようかと思っていたのだけど、その小さな町がどこにあるかとか、目星すらついていなかった

空港から出るとインド人と同じ顔したオートリキシャ(三輪タクシー)のオヤジが法外な料金(多分)で客引きしてくるが、断ると、あっさり引き下がりすぎるのにも物足りなさを感じながら、近くのバス停へと人に道を聞きながら向った

とりあえず適当にバスに乗って、気に入ったところがあればそこで降りてみればいいかと思っていた

こんな書き方をすると、いつもの事のように聞こえるが、実際は初めてだ

今までは、少なくとも国境を超えるときは、次に向う街をネットで調べたり、予約まではしなくとも、安宿街がどこら辺にあるのかとかは調べてから移動してた。しかし、旅も一年を超えると段々いい意味でも悪い意味でも慣れが生じる。その結果、「なんとかなるだろう」と頭の中でつぶやいて、横着をするようになっていく

右も左もわからぬままバス停に向いながら、やはり最初に向う街くらいは決めておくべきだったかと、少し後悔した

バス停に向って歩いていると、前を2人のバックパッカー風の男女が歩いているので、何か情報を聞けないかと思って話しかけてみた

「こんにちは、これから何処に向うの?」いきなり後ろから話しかけれら、驚いたように振り向いた男の方が「おお 君は何処から?」 

「俺は日本から、そっちはフランスでしょ?」「なんでわかったの?」「英語のアクセントがフランスっぽいから」「ああ、俺たちはこれからニゴンボっていう、ここからバスで30分くらいの町に向おうと思ってるんだよ」

「何があるの?宿は目星着いてるの?」「ああ、宿はネットで探して一番安いところを抑えてある。ニゴンボは所謂ビーチリゾートみたいな所だよ。首都のコロンボは高いし、何も無いって聞いたから今回はとばしてしまおうかと思って」

しめたと思った。彼等についていけば、とりあえず今晩の宿は何とかなりそうだし、一番安い宿ならバックパッカーも集まるだろうから、今後の情報集めもできると思った

「じゃあ俺もご一緒させてもらおうかな、何も決めてなかったから」「じゃあとりあえずまずはバス停を探そう」

俺たち3人は話しながらバス停を探した。二人はカップルで旅をしていて、男のボーズ頭で体の線が細い方がジュリアンで、肌が浅黒く、顔も欧米人らしからぬ女の方がマエバ

俺が「マエバ」と言う名前を聞いた瞬間に、一瞬訝しげな顔をしたのを彼女は見逃さなかった

日本語で「前歯」がどう意味か知っていたらしく、にっこり笑って自分の前歯を見せてきた

というのも、つい数ヶ月前までこの2人はオーストラリアでワーキングホリデーとして2年近く働いていたらしく、その時に日本人との交流が結構あっただとかで、日本文化には結構くわしいし、俺の事も聞く前から多分日本人だと思ったらしい

ちなみにマエバは父がフランス領のポリネシア系出身で、母親は韓国人で、本人はフランス本土育ちという事だったが、見かけからは半分も韓国の血が入っているようには見えない

バスは予定通り30分後にはニゴンボのバスーターミナルに到着したが、宿がどこにあるかは誰も皆目検討がつかなかった

そんな時はオートリキシャの出番である。ジュリアンが早速道端にたむろしているリキシャの運転手と交渉を始めたが、見てると交渉が下手で結局言い値とほとんど変わらない300スリランカルピー(240円)で乗る羽目になってしまった

こんな事なら俺が交渉すればよかったとも思うが、いつも数人でいるときは口を出さないようにしている

俺はとに角一度は断る事にしている。断って交渉を放り投げ、運転手に背を向け、後ろから追いかけてくるのを期待して歩き出すのだ。そうすると、大抵は追いかけてきて、こちらの言い値になるのだが、ごくたまにそのまま放置されることがある。そうなると戻って交渉をしなおすのもかっこ悪いので、歩いていくしかなくなる

俺一人ならそれでいいが、何人も人がいると巻き込みかねないので、そういう時は交渉を任せてしまう。たとえ相場より高くても、人数で割れば結局安くなるのだから、文句は頭の中でつぶやくだけにしている

ちなみに後日この町に戻ってきたときに、俺が一人で交渉して乗ったら100ルピーだった。三分の一だ。ジュリアンがどれだけ交渉が下手くそなのかがわかるだろう。俺は特別な交渉術なんて持っていない。皆がやっている常套手段を使っているだけなんだから

宿に着くとリキシャのドライバーは満足そうに300ルピーを右手で掴んで、もと来た道を引き返していった

宿の部屋は俺の分もあるが、一部屋ではなく、一つのベッドで1300ルピー。暴力的な高さに一瞬思考回路が停止したが、ここが一番安いなら、これがスリランカの物価だと受け止めて、諦めて泊まるしかなさそうだ

 1300ルピーは600インドルピー

北インドで600ルピーも出せば、冷房付きの綺麗な部屋に一泊できる。けっして一つのベッドではない

それでも宿はそこそこ綺麗で、ホットシャワーも完備されていた。お湯のシャワーを浴びるなんて一体何ヶ月振りだろうか??

ドミトリーは8ベッドの部屋で、既に2人のスリランカの旅を終えた先客たちがいた

この2人から情報を集めた後、別の部屋に泊まってるジュリアンカップルと合流して、少し遅めの夕食を食べに出かけた

ゲストハウスのすぐ裏はビーチと絶好のロケーションなのだが、着いたころには煌々と真っ赤に燃える夕陽も、終わりかけの線香花火のように、力なくその姿をほとんど地平線に鎮めていたので、この時はビーチがあることすら気がつかなかった

宿の前は所謂ツーリスト通りになっていて、スリランカの特産品、宝石店を筆頭に、ツーリスト向けの洋服や小物を扱ったみやげ物屋が軒を連ねていた。その殆どの店が小奇麗で、商品の陳列などにも気を使っているのがわかる

東南アジアやインドのこういった類の店だと、建物は馬小屋と区別がつかなく、商品の陳列も倉庫なのか店先なのか区別がつかないくらい雑に放り投げられていることが殆どなんだから

洒落た街路灯が両脇で道路を飾り、それぞれの店先のクリスマスのような派手すぎないネオンが協力するように一定間隔で点滅しながら、初めてスリランカの地に足を踏み入れるツーリストを歓迎しているようだった

地元の人が頻繁に通うようなローカルレストランはいくら歩いても見当たらなかった。どこまであるいても高そうな小洒落たレストラン

ジュリアン達も俺も長旅が予想されるだけあって、ローカルレストランで金を節約したい気持ちは一緒だったし、今までの経験だと、小汚いローカルも洒落たレストランも味には大して差はない。雰囲気が違うだけ

この日はローカルレストランを諦め、適当なレストランに入った



この日は疲れていたため、酒はあっという間に俺の脳を支配していった

酔っ払ったスリランカ人2人に絡まれたが、既にボトルを2本飲み干していた俺は、数分後には逆に絡み返していた

そのなかでも、金の節約と一切酒には手をつけない2人は冷静だった

こうしてアホなスリランカ人と酔っ払って騒ぎながら、一日目の夜は慌しくも、平和に過ぎていった


2014年4月13日日曜日

仲間達との別れ インドの旅の終わり

日記も終に3ヶ月遅れ・・・今はネパールでトレイルランニングとトレッキングに勤しんでおります

今回は一気に遅れを取り戻すために、インドの日記を一気に書き上げこれで終わらせてしまおうと思ってます


俺たちはコーチンで数日滞在した後、更に南下したところにあるアレッピーに向う事になっていた

ここまでは俺のプランにポール達が合わせてついて来た感じだったけど、ここからは特にプランが無かったので、アレッピーから更に南下したところにあるビーチリゾート、バカラで誕生日を迎えたいと言うポールのプランに乗っかることにした

そこで最初に向かったのがコーチンからバスで何時間か忘れたけど、水郷地帯の町アレッピー

この水郷地帯は現在ではバックヲーターと呼ばれ、ヤシ木の間を流れる運河や湖を行き来するボートを日常に使い、のんびりとした生活を送る人々の営みが、複雑な水路と絡みあって形成されている

そしてこれらの町から出発する水郷地帯を巡る船の旅がケララ州のハイライトといってもいい

いつものごとくローカルバスに何時間も揺られ、着くころには誇りだらけになってぐったりしてる俺たちだが、今回はのんびりしている時間がない。ポールの誕生日は数日後。それまでに船旅を経てバカラにたどり着かないといけない

バス停であったイスラエル人にゲストハウスを紹介してもらい、荷物を部屋に放り投げると、各々勝手に町の観光に出かけた


 バックウォーターの船旅を町最大の観光業にしてるだけあって町の水路は専用のボートだらけ

2時間後に再び集まり、近くのビジネスホテルのレストランに3人で食事に行った

実は俺たち3人朝から何も食べていなくて、恐らく全員が胃袋が背中にくっつくくらい腹が減っていたはずだ

各々注文をすますと、後からインド人の家族がレストランに入ってきて注文を始めた

そして数分後、後から来た彼らのテーブルに食事が先に運ばれて来たのをベノは見逃さなかった

すかさず俺とポールに文句を言い始める。いつもの事だが俺もポールも腹減ってるのは同じだし、ベノの屁理屈は空腹に堪える

2人でベノの説得を試みる「頼んだものが違うんだから、出来上がる順番が違ってくるのも当然だろ。良くある事だよ。しかもここはインドだぜ」

それでも納得のいかないベノ君は近くのウエイターにクレームを入れる

いつもと違うのは珍しく声を荒げているところだ。ねちっこい屁理屈はいつも通りだが、今日は喧嘩腰である

恐らく、慢性的な空腹感がじわじわと胃から大脳へ攻めあがって、怒りっぽくなっているのだろう

お陰で俺たちのテーブルは、風一つ無い朝靄のかかった湖のように食事が終わるまで静まり返っていた

まだ怒りがおさまらないのか、会計の時も店員にキレ始める始末。もう面倒なので放置して俺たち二人はそのまま夜の町に繰り出した

バックウォータートリップの参加の仕方は大きく分けると二つある

一つは、乗り合いのボートに乗って数時間水路を巡るという時間的にも金銭的にも余裕の無い人に持って来いの軽い船旅

もう一つは、ハウスボートと呼ばれる、宿泊施設を兼ね備えたボートを家族や仲間でチャーターして、数日の船旅を楽しむというもの

時間が無かった俺たちは前者の簡易な船旅を申し込むつもりでいたんだけど、実は宿のオーナーがハウスボートを一艘所有していて、それをコックと船頭付で破格の値段で提供できると提案してきた

普通なら一艘チャーターして数万ルピーが相場なのだが、一泊二日食事つきで2000(3400円位)ルピーで手配してくれると言うのだから、考える暇もなく俺たちの結論は出ていた

さあ、いよいよ船出

宿の前の水路からスタートした俺たちのボートは、川幅が少しずつ膨張し、やがて夏の夜空に広がる花火のように急に広がり、大きな湖とも海ともいえない、晴れて表面は、白っぽく粉が吹いたように凪いでいるデルタ地帯に出た

デルタ地帯を抜けると再び川幅が狭くなり、川岸にはヤシの木や南国特有の植物が姿を見せ始める
辺りには黒い影を牽いたボートが増え始め、水面に何万もの波紋が次々と生まれていく。恐くメインエリアに到達したのだろう

時間通りに食事にありつけてご満悦そうなベノ君

皆船に乗っている間は何をするでもなく、ボーっと遠くを眺めてる時間が多かった

 ヤシの葉のあいだから、光のかけらが星のように光っていた


 最後の陽の輝きが、錆びたような色を湖面一面に漂わせる





夕方になるとボートを岸につけて上陸

どうしても川で泳ぎたいポールは何回も俺を誘うが、生活排水と混じりあった川に入る気になれず断ってシャワーを浴びようとすると

「そのシャワーの水はどこから引っ張ってきてると思う?」。。。そんな筈はない。ベノにあっさり断られ、どうしても俺をスイミング仲間に引き入れたいらしい

そんなポールを無視して俺はシャワーを浴びた。シャワーの水を見ながら考えてしまった。。いや、その事ではなく。多分 俺 すごい 疲れている

考えてみるとここ一ヶ月信じられないくらいの量の英語を喋っている。上達には持って来いだけど、疲れる。日本語がちょっと恋しい

普段なら日本人見ても中国人の振りしてやり過ごすけど、今なら自分から話しかけてしまうかもしれん

 素敵な寝室??

体の大きさの結果、ポールは外に、俺とベノは2人でこのベッドを使って寝ることになった

想像して欲しい、暑すぎるため男2人が蚊の羽音に悩まされながら上半身裸で、この素敵なベッドで仲良く寝る絵を

案の定、蒸し暑さと蚊の上に、深夜馬鹿インド人のボートが近くに停泊して大騒ぎしてたせいで、俺たちはまともに睡眠が取れなかった

ポールのすっきりした顔を見れば俺達との睡眠の質の差は一目両全だ

朝から早速ベノの愚痴を聞く羽目になったのは言うまでもない。彼曰く、この旅始って以来の最悪な夜だったらしい。ちなみにこの旅最高の水圧だったシャワーは数日前に泊まったコーチンのホテル。この旅、最高や最低が続く忙しいベノ君でした

船は午前中にゲストハウス前の水路に戻り、俺達はその足でそのままバカラに向った

ここでゲスハウスを決めるときにもひと悶着あったが、これが恐らく最後のバトル。俺達はこの街で別れることになっていた

ポールはそのまま更に南下して先っちょまで行った後、デリーに戻り、ドイツに帰国。ベノはもう少しインドをうろついてから、日本に行くらしい



バカラは白人が集まるビーチリゾート。崖の下に広がる縦長のビーチ、崖の上にはレストランやゲストハウスが軒を連ねるツーリストエリアになっていて、崖から伸びる階段を下りれば簡単にビーチにアクセスできる仕組みになっている

ここは俺達の旅のハイライトにもなった。今まで知り合った旅の仲間とバッタリ再会したり。またある時は、その仲間のうちのドイツ人だけが集まり、俺の部屋がドイツ人だらけになった。それでも彼らが俺の前で母国語で会話する事は無かった

ポールの誕生日も無事に迎えられ、20歳になった

実は俺とポールはインドのリシュケシュで一回会ってるのだ

会話はしてないが、リシュケシュのレストランで見た俺のタトゥーを急にこの日思い出したらしい。時期も殆ど同じなので間違いないだろう。だから、どうという事は無いんだけどな

 最後の3人での晩餐

いよいよ次の日お別れ

もう一年以上旅を続けてると、出会ったり別れたり、所謂一期一会に慣れてしまっていたけど、さすがに一ヶ月も同じ仲間で行動し続けたのはこれが始めてだったせいか、皆思うところはそれぞれあったようだ

なかでも一番別れを惜しんでくれたのは、途中から合流したベノ君です

日記では散々ぼろくそに書いてるけど、本当は凄いいい奴

よく別れる時に、お互いの国で再開の約束をするけど、いつもその後にその約束の一体何パーセントが実現するのだろうかと考えてしまう。でも、ベノが最後に言った一言は100%実現する確信がある。口論は絶えることが無かったが、俺たちの仲はそんな感じなのだ

ベノは一番優しい、ポールは一番大人、俺は。。。多分一番わがまま

欧米社会で年齢は関係ないとは言え、この一ヶ月間文句を言わず、俺に合わせ続けてくれたポール君にも感謝 感謝

二人と別れると、俺は朝一のバスで、インド最後の電車に乗るために、ティバンドラムに向った

インドは広大だ。旅して初めてその事実を体で実感した

特にそれを感じるのは電車に乗ってる時、車窓から流れる景色

世界の端っこのような荒野は奥行きのない乾いた風景。 鮮やかな直線と曲線で区画された田畑が延々と続く風景は、一幅の名画さながら。一面に濡れたように仄明るく見える草の一本一本が、青白く放電するように逆立つ草原。デジタルアルバムのように次々と変わる風景はインドそのもの

そして俺が最も好きだったのは、車窓から流れていく時間そのもの

車窓から景色が流れていく。遠くの木はゆっくりと流れていき、手前に移る木はあっという間に窓枠の外へ消え去り、新しい木が窓枠に飛び込んでくる

未来が減れば減った分だけ、過去の記憶として積み重なる。この景色のように遠く深い記憶はゆっくりと、近く浅い記憶はあっさりと窓枠から消えて色褪せていく

どうせ色あせてしまうなら、遠くをいつまでも眺めていたい・・・・

2014年3月17日月曜日

コーチンで普通に観光

コーチンはケララ州に広がる広大な水郷地帯の北端に位置し、天然の入り江や湖に恵まれた湾は一つ一つが青い水溜りに見えなくも無い

この地は古くからポルトガルやUkの植民地として潤い、今でもかつての植民地跡独特の雰囲気を残す。カラフルな石造りの建物にはめ込み式の窓、ドミノのようにきちんと整備された道路、この文化の香り漂うお洒落な町では、インドを4ヶ月以上旅してインド色に染まった自分にはなんだか街が、自分を拒んでいるようによそよそしく見えてしまう

さて、この街の移動は少々ややこしくて、そもそもがケララの州都という事で街自体が中々大きいのに加えて、中心地のエルナクラムエリア以外は全てフェリー移動が必要となる離島にある

地区は大きく分けて3つあり、インド内地にあるエルナクラム、その隣にある謎の島、そしてさらにその奥にあるフォートコーチンエリア。観光資源の殆どはこのフォートコーチンエリアに集中してて、必然的にゲストハウスやバーなどもこの地区に集中してる

もちらろん俺たちもそこを目指すことになったんだけど、朝からまたベノとのバトルを楽しまなくてはいけなかった

フォートコーチンに行くにはまずは港に向かいそこからフェリーに乗らなくてはならなかった。駅からフェリーまでの距離が2キロ程度だったので俺が歩く事を提案したら、ポールはどっちでもいいと言い、ベノがまたわけのわからない事をぼやき始める

俺「近いから歩きたいんだけど、それでいいか?」ベノ「いやヒデよく考えてみてくれ、俺たちは荷物があるんだぞ、なければ楽勝だけど今はきついだろ」

俺「じゃあベノは歩けないんだな?」ベノ「いや歩けないとはいってないよ、でも君はわかってないよ。みろこの温度、立ってるだけでも汗が滴ってくるじゃないか。必ず途中でバテルぞ」

俺「俺はなれてるから楽勝だよ、いつも歩いてるし。でもベノが歩きたくないならリキシャに乗ろうよ」ベノ「いや、歩きたくないとはいってない。ただ途中で必ずバテって言ってるだけだよ」

俺「ベノ!!お前は歩きたいのか嫌なのか?どっちだ?頼むから話をややこしくするな、yesかnoだけで答えろ。お前に従うから」ベノ「いや、だから嫌ではないよ。皆が歩きたいなら歩くよ」

俺「OK 答えはYESなんだな?よし歩こう!」と、言った瞬間にベノの顔が今にも豪雨になりそうな程曇った。・・・・・・なんて面倒くさい男だ

俺「OK ポール!!リキシャを拾うぞ!!」 「了解!!」やっと終わったかというようにポールは元気に返事を返す

ベノは何か言いたそうだったが俺が無理やりさえぎり何も言わせなかった

たった2キロの移動で、しかも移動する前のこの一晩中うねる大波に揉まれていた様な心身の疲労感は一体なんなんでしょうか!?

リキシャをひろい港まで5分。船に乗るときも買ったチケットがなぜか既に発車したフェリーの物で、ここでもベノの屁理屈攻撃が炸裂

でも、今度は俺にではなく港のスタッフに。さすがのインド人もベノの屁理屈攻撃は堪えたのか、無効になったチケットのまま船に乗る事ができた。この時だけはグッジョブである

ひたひたと無限に波打つ大海原をフェリーは小さな島を巡りながら、フォートコーチンを目指していく。フェリーの乗客は殆どがインド人で、恐らく地元の人たちの島間の移動の普段の足として使われているのだろう

フォートコーチンに着くとまずゲストハウスを探すわけだけど、今回は港から近くても口は出さずに黙ってリキシャに乗った。これ以上今日はベノの屁理屈に耐えられそうに無かったからだ

リキシャにゲストハウスがかたまってる地域まで連れて行ってもらい、降りようとするとゲストハウスを紹介したいと言って来る

もちろんコミッション狙いなのは明確なので断ろうとすると、ベノが勝手にお願いしてるし

俺「ベノ!!余計なことするな!!そんなの必要ないだろ?俺たちだけで探すぞ!!」ベノ「折角彼が探してくれるって言ってんだからお願いしようよ。ここは知らない土地なんだし」

俺「ベノ!!お前はアホ~か?そんなのコミッション狙いに決まってんだろ!!あいつの紹介する宿に行ったらこっそり宿代に上乗せされて紹介料取られるんだよ。ここはそういうこすい国なんだよ。頼むから面倒なことしないでくれ」ベノ「俺はそうは思わない」 ・・・何を根拠に・・・・

俺「おいポール あのアホを何とかしてくれ。俺は彼の暴走をこれ以上止める自身がないよ。でもコミッションは払いたくない」ポール「なんともならんな。でも俺もコミッションを払いたくないと言うところでは意見は同じだ」

俺「よし決まりだ。あいつは放置して俺たちだけでゲストハウス探すぞ」と、言ってリキシャにとっとと金を払い、まだリキシャと話しているベノを放置して俺たちは勝手に歩き始めた


 手ごろなゲストハウスは簡単に見つかった。俺たちは基本的に長距離移動の後はビールで無事到着のお祝いの乾杯をするんだけど、この日はベノのお陰でずた袋のようにボロボロに疲れていたので、腹いせにインドでは高額な700ルピーのロブスターを頼んで一人で食ってやった



夕陽を写し込んだ海が、粉々に砕けたガラスのようにぎらぎらと夕陽を反射している。その砕けたガラスと同じ数くらいのインド人。小さな波が水際を弄んでいるらしく、長い線が白羽のように光っては消える夕方のインドのビーチ


 この地域伝統の漁法チャイニーズフィッシングネット

石をぶら下げた綱の重みでネットを引き上げるからくりは圧巻だが、今では完全にただの観光ように成り下がっている模様だった


かつてのコロニアルな雰囲気が漂う石畳の連なるこのエリアも、今ではただお土産屋が軒を連ねているだけの観光エリア

俺たちは特に特別なこともしなく、この街では皆がやっているように、普通に観光を楽しみました

あれ以来ベノも大人しくなり、ストレスを溜めることなく数日観光を楽しんだ後、次の街へと向った



2014年3月10日月曜日

ごったごたの移動

時は満ちた。1月5日、ようやくハンピを出る列車のチケットを手に入れた俺たちは、まだ家中の誰もが寝てるような時間にリキシャをつかまえてホスペットの駅へと向った

まだ人の息の混じっていない清潔な朝の空気のなか、俺たちを乗せたリキシャは街頭どころか車のテールランプすら見当たらない道路をただひたすらと駅へと走らせた

駅は相変わらずロータリーにもホームにも構内のロビーにも布を引いて夜を明かしているインド人が転がっている

俺たちは駅の掲示板で自分達の列車や発着ホームを確認すると、まだ時間は一時間ほど余っていたが、そのまま自分達のホームに向った。朝の明るみが果てしない当方からにじむように広がり、ホームの間にゆっくりと光を落としていく。長い長い移動が始ったのだ

俺たちはここから一気に南インドの南西に位置するコーチンにゴアを経由して向う手筈となっていた。ゴアでテクノパーティーに参加して朝まで踊り明かしたいって話もしてたんだけど、この時期はとに角宿代が高いという話を他のツーリストから聞いていたので、その計画はドイツまで持ち越して、今回はパスする事にしていた

列車は朝の6時発で夕方の4時にゴアに到着、そこから2時間のトランジットの後、夕方の6時発の列車に乗り次の日の朝にコーチンに到着する、約24時間前後の移動

ゴアまでの列車の旅はあっという間だった。俺はPCで映画みたり音楽聴いたり、ベノは本をよんでポールは景色をぼーっと眺めて、皆それぞれしたい事をして特に会話もせずに、邪魔をしてくるインド人もいなく、午後は淀んだ深い川のようにゆっくり静かに流れていった

ゴアについてからはリキシャに乗って一度街に出てから夜に備えてレストランで夕食をとって再び駅まで戻った。ここでもベノの事で揉めたんだけど、長くなるので割愛!!

2本目の電車はナイトトレインとなるので、寝台席を取ったんだけど、今回は3Aじゃなくて普通のスリーパー席

問題はここからで、最初は3人の席は同じボックス席の中という話だったんだけど、席は近いものの皆バラバラ。そして一人分の席だけボックスから外れたサイドシート。何が問題かというとこのサイドシートは他のシートに比べると少し短いのだ。当然のことながらポールの足は納まらないし、身長が185あるベノもにも少し窮屈。そして俺ならギリギリ納まる。

しかしである、最近パックセーフをなくして以来、俺は防犯も兼ねてバックパックをベッドの上に載せて枕にして一緒に寝るようにしていたのだ。そうするとバックパックの分のスペースがあるので俺でも体がおさまらなくなるのだ。そうなると一体誰がババを引くのかという問題になってくる

体が長すぎるポールは当然のように一番上のアップシートに寝そべり知らん顔。残った俺とベノでバトルとなったのだ

最初は当然のように短いシートがあてがわれたが、バックパックの事を説明した

するとベノは「バックパックを下に置けば問題ないだろう?」「いや、大事なものがいろいろと入ってるから下には置きたくないんだ」

ベノ「誰も盗んだりしないよ」「ここはインドだぞ!!まだろくに旅もしたことないくせに良くそんな無責任な事が言えるな??もし何か盗まれたらお前が責任とってくれるのか??」と、俺はすこし興奮気味で言い返した

ベノ「鍵をかけとけば大丈夫だよ」「そんな事聞いてない!!質問に答えろ!お前の言うとおりにして何か盗まれたら責任とるのか聞いてるんだよ!!」

すると知らん顔していたポールが上から「ベノ、彼の言うとおりだ。おれ達にそんな責任取れるはず無いだろ。人の荷物の管理のし方にまで口を出すべきじゃない」 ベノ「じゃあ誰があそこで寝るんだよ」

上でのん気な顔をしてるポールも引き摺り下ろしてやりたかったが、さすがにポールをあそこに押し込んだら、体育座りで寝る羽目になるので、結局俺とベノの言い争いにならざるをえなかった

それに何よりムカつくのが、ベノの物言い。回りくどくて理屈っぽすぎるのだ。ストレートにシンプルに言えばいいのをあーでもないこーでもないと関係ない話まで織り交ぜて言って来るので、次第に背中を走っている神経の束を逆撫でされたようにイライラしてくる

その上2人とも下手くそな英語で言い合いをしていたので、お互い段々言ってる事がわからなくなってきて、バトルは苛烈を極めていった。ベノはたまにドイツ語になるし

俺が切れて「じゃあ勝手にしろよ、そんなにそこで寝たいならどうぞゆっくりといい夢でも見てくたばっちまいな!!お休み!!」と言って、短いシートの方に荷物を移し出すとベノが「そんなに熱くなるなよ」・・・誰が熱くさせてるんだ? 

自分の物言いが人をイライラさせることに全く気づいてない様子のベノ君 

更にベノは「そんなに怒るなよ、わかったよ。俺がそっちで寝てみるよ。寝てみれば意外と寝心地が悪くないかもしれないし」と、急に大人になるベノ

恐らく彼に最初から悪気は無かったのだ。ただあまりにも回りくどい言い方に俺が勝手にいらいらしてバトルになってしまったのだ

俺は別にじゃんけんとかで決めてくれても良かったのに。ドイツにもちゃんとじゃんけんの文化があるのだから。ちなみにドイツでは「シュニック シュナック ニュノッグ」と、言うらしい

それでもこのイライラした気持ちで仲直りする気にもなれなく、空気の悪いままベノが短いベッドをとり、ようやく全員とこにつくことができた。周りをみると他の白人ツーリストがドン引きの顔でこっちを見ていた

インド人が外で怒鳴りあいをしているのは日常の光景だろうけど、日本人とドイツ人が下手くそな英語で喧嘩してるのはきっと彼等には始めての光景だったに違いない

しかし、ごたごたはこれだけでは終わらなかった

真っ黒なインクをぶちまけたような夜更けに、ベノがいきなり俺を叩き起こしてきた。

まだ昨日の事を根に持っているのか?なんて奴だと思っていると、俺に列車のチケットを出すように言ってきた

「なんでそんなものこんなクソ遅い時間に必要なんだよ、チケットのチェックならとっくにおわってるだろ?なんか俺に恨みでもあんのかベノ?」 「俺のベットの前にいるインド人を見ろ。あいつが自分の席だって言い張るから今揉めてんだよ、それでチケットが必要なんだ」

確かにベノのベッドの前には恰幅のいいインド人が携帯電話で誰かと話しながら立ちはだかっている

素直にチケットを出してベノに渡すと、ベノはチケットを持って自分の席に戻って、電話で話しているインド人に強い口調で主張を始めた

「これが俺のチケットだ。よくみろ!!次はお前の番だ!!お前言ったよな?チケット持ってるって!見せてみろよ」 インド人「あー悪かった 俺の勘違いだ ここはお前の席でOKだ」

ベノ「良くない!!お前チケットもってるって言っただろう?見せてみろよ。こんな時間に人たたき起こして間違いでしたで済むと思ってるのか?とに角お前のチケットを み・せ・ろ」ベノにしては珍しく熱くなっている(ベノは見かけによらず平和主義者です)

インド人はたじたじで「悪かったって言ってるだろう?」ベノ「意味わかんないね!!いいからチケット出せよ」と攻めまくるベノをポールも目を覚ましたのか心配そうに眺めていた

インド人はベノの攻撃にずるずると後ずさりして、逃げるように携帯電話で話しながらどっかに消えてしまった

その後も怒りが治まらないのか、一人でぶつぶつと怒りを独り言に載せて、ラップのようにつぶやいていた

さ・ら・に その数時間後の朝、今度は俺の下で寝ていたこれまた恰幅のいいインド人に叩き起こされた

奴の主張は今すぐ起きて上の空いてるベットに移れというものだった

インド列車のボックス席は、ベッドが3段になっていて、普段は2段目のベッドは畳まれている。そうしないと一番下の席に座ることができないからだ。だから彼は起きて座りたかったから、寝ている俺を起こして上に移れと言ってきたのだ

朝はだれだって機嫌が悪い。例外なく俺も昨日の事も手伝って格別にこの日の朝は機嫌が悪かった

そのインド人に対して俺は一言「い・や・だ」と、言って寝返りをうってそっぽを向き、もうこれ以上お前と話す気はないと言う態度を示した

するとそのインド人は、そんなのおかまいなしに、ぎゃーぎゃーわめき始めた。さも自分の主張が当たり前かのように。頼み方を知っていれば俺も嫌々ながら上のベッドに移ったのに、こいつの態度はいただけない

しつこいので俺は無言で思いっきり上のベッドを蹴っ飛ばした。すると騒いでいたインド人は急に大人しくなり、風船がしぼんでいくように自分の席に戻っていった。でかいのは体だけで気はちっちゃいのがインド人の特徴。それを良く知っている俺は場を簡単におさめる方法を知っていた

しかし、自分が馬鹿だった事にすぐ気がつかされた。ベッドを蹴った衝撃で親指のつめが中ほどまで割れて、血が滲み出ていた。昨日ドン引きしていた白人ツーリストはまたかと言った顔で今度は呆れ顔

電車を降りるとき俺はポールに「もう二度とこの3人で電車に乗りたくない」とい言った「そんな事言うなよ、俺は楽しかったぜ」 俺「お前だけな!!」

 

 

2014年3月9日日曜日

年越しもハンピ?


大晦日の前日、ポールの友達ベノがハンピに到着した。バラナシから電車の中で夕陽が沈むのを2回楽しみ、更にバスの中でもう一回沈み行く夕陽を拝んでようやく到着したらしい。計56時間の移動

右足と右腕全体のタトゥーに鼻と唇にピアス、両耳には特大のボディーピアスとハードコアなルックスのベノはぐったりとしながらも愛想よく自己紹介してくれた

話してすぐ分かったが、ドイツ人にしては珍しく英語が下手くそだ。実はベノも俺たちの英語の旅に混じりたくてバラナシから3日間かけて遙々やってきたのだ。そんなわけで俺の前でのドイツ語は例えポールと話すときでさえ禁じられた。禁止したのは俺ではなくポールだけど

ベノが来た時点で俺たちは既にここに来て一週間以上が経過していた。ハンピでは特別なアクティビティーやツアーなどは用意されてないけど、探せばやる事はいくらでもみつかる

釣道具を借りて釣をする、ボートを借りて一日中川をのんびり下る、村一番の丘に登って絶景を眺めながら乾杯をする、川向こうのがけでロッククライミングをする、湖に夕陽を見に行く、バイクを借りてツーリング。。。2人でいろいろと提案しあったけど、結局それらが実現する事はなかった。俺たちはあまりに怠け者過ぎたのだ

大体朝起きると2人で朝食を近くのレストランに食べに行く。朝食と言っても時間が遅いので昼兼用で帰ってくると俺はシエスタ、ポールはその間PCの楽曲作成ソフトでテクノを作って遊んでいる。俺がどっか行けば付いて来るが、自分からどっかに行くことはほとんどない。次の日やる事を決めておいても次の日になると気が変わってしまっている。それに対してポールも文句を言わないのでだらだらとベッドの上で一日を過ごす日が増えていってしまう

そしてそれはベノが来たからといってこの怠慢な日常が変わることはなかった

大晦日も新年も特別な事は何もしていない。せいぜい大晦日に隣町にビールを買いに行って、こっそりハンピに持ち帰って皆で乾杯したくらいだ。ちなみにハンピの村に酒を持ち込んだのが警察に見つかると10000ルピーの罰金らしい。日本円で17000円くらい

そして酔って寝て、そのまま年を越した。

ベルリン出身のベノいわくベルリンの新年は狂っているらしい。そこら変で爆竹を投げまくってる奴がいるかと思えば、殴り合いが始まったり。特に理由はないが人を殴る奴がいるのだ。そしてそんな騒然とした中そこら変で薬中が倒れてて、一般人たちが大騒ぎする。そんなドイツの年越しが嫌いらしい。ベノにはお似合いだと思うんだけどね

それに比べるとここは静かで誰もカウントダウンもしなかったらしい。ちなみに村の人口は殆どが観光客で、その90%以上が白人。それでも次の年へと静かにカレンダーはめくられていった

新年もこっそりと持ち込んだビールで昼から乾杯

ベノはこんなルックスでもナースらしく、数ヶ月の休みをとってインド、そしてこのあと日本を旅するらしい。日本人の感覚からしたら、全身刺青とピアスだらけのナースが数ヶ月の休みをとってインドを旅してるって、ドラマの設定だったとしてもありえなすぎて笑ってしまう

ドイツのナースは皆そんないかれた格好してるのかベノに聞いたら、自分は特別だと言った。実際こんな奴はいないし、患者にも同じナースにも変な目で見られると。それでも普通に働けるドイツの寛容さが羨ましかった

ポールは現在19歳で丁度高校と大学の間に休憩を入れて、音楽制作に精をだしたり、旅をしたりしてんだとか。どういうことかと言うと、ドイツは日本と違って高校卒業してもすぐに進学するという文化がなく、皆その間の1~2年間は自分の好きな事に時間を使うらしい。

そしてドイツは殆どの学校が学費免除になるので、みんな高校を卒業すると家を出て働きながら学校に行って、自分で生計を立てることを学ぶ。だからポールが最初19だと知ったときは驚いたけど、若い頃から一人で生きることを学ぶ欧米文化だと心が大人になるのも早いのかもしれない。ポールと話していても、とても10以上も年下と話しているとはおもえないもんな

学費の高い日本では、学生の頃から親の援助無しに生計を立てながら自分のお金で学校に行くっていう事は、並みの努力では難しい。だから日本人の学生が他の外国人に比べると心が未熟なのもしょうがないのかも知れない。そういう場面に直面すると辟易してまうのは否めないけど・・・


新年2日目、ようやく俺たちの計画のひとつが実現した。村の郊外にトレッキングに行く

このぐーたらな空気を振り払うには誰かが引っ張っていかないとと思い、前日俺が提案して全員にアラームをかけて寝るように支持した

結果として俺一人が完全に寝坊をしてやる気をなくしていたのだが、他の二人が珍しくやる気を見せ、見事朝の10時にトレッキングに出発できたのだ

トレッキングと言っても、特にトレイルがあるわけでもなく、村から遠くの方に見える岩山を川に沿って目指すという事でとりあえず話はまとまった

しかし、話はそんなに簡単でもなく、遠くから見ると通れそうなところも、近くに来ると思いの他岩がでか過ぎて越えられないとか、川が部分的に氾濫していて渡れないとか、進んでは戻って回り道探しての繰り返しだった


 一応水浴びができる所に行くっていう目的はあったものの、ぼんやりとしたもので目的地が無いのも同然。進めないら帰ればいいと考えてはいたものの、すぐ引き返すのもあっけなさ過ぎるので、どんどん目印の川から離れた所に迷い込んでいった

途中機嫌悪そうな牛が居座って、怖くて追い越せずにぼーぜんと佇むベノ

ポール「ベノ!こっちが何もしなければ大丈夫だから早くこっち来いよ!!」「でも相手は動物、何が起こるかわからないだろう!!少なくとも言葉は通じないんだから」

俺「少なくともドイツ語は通じないだろうな!!あははは ビビッて無いで早く来いよ」

完全にビビッてしまったベノ。牛も呆れ顔で見ています



ようやく水浴び場についてご満悦の2人

俺は水が汚かったのでパス

その後ガイドを連れて滝を目指している白人ツーリストがいたので、こっそりと後をつけるも、途中で見失い滝までたどり着けず

なんだかんだで半日以上歩いたので満足して帰って来た

 次の日は一度いったところだけど、ベノがまだいってなかったし、そこから見る夕陽は格別だと聞いたので、再び村一番の丘に登った



夕陽をハートで囲んで写真を撮ろうとするベノ

センスの悪すぎるクレイジージャーマン 









この丘で夕陽を待ってる瞬間が旅のハイライトだった

 二度と戻ることのできない時間を異国の地で異国の仲間と共有する

探求とはまず開放から始る

さぁ!そろそろハンピを出ようかな

2014年3月5日水曜日

ハンピで談話

久しぶりの日記。。。この日記は多分3ヶ月ほど前のものになります・・・・

今は香港で優雅な生活を送っています。でもなんだか刺激が不足してます


朝早く寝坊したポールを叩き起こしてバス停に向った。二日連続でバスを逃すのは御免だった

ハイデラバッドからハンピの入り口の町までバスで12時間とインドにしてはそんなに遠くは無い、たったの400キロ

バスの中で新しいシスターができたポール君

わずか2時間の間に派手な事故を2度も目撃

着くころには俺もポールも一日中バスの中で体育座りしていたのでぐったり、到着間近になると着いたら最高のビールで乾杯しようって盛り上がってたのに、ハンピ自体が厳格な聖地のため肉や酒を手に入れることができずに意気消沈

ハンピ村に着くと既に真暗でゲストハウスを探すのもめんどくさかったので、前の宿で日本人に教えてもらった宿を探すことにしたが、村が狭いためすぐ見つかった

2人でたったの200ルピー。部屋は狭く貧乏大学生の下宿先のようだった。この時期でこの価格は破格だったため泊まる事にしたんだけど、宿が日本人宿だったため次の日にチェックアウトする事になった。

次の日はもっぱらゲストハウスを探すのに時間を費やしたが、なかなかポールが嵌るゲストハウスはみつからない

足が納まらないが我慢してもらうしかないです


 年末年始で列車やバスのチケットが取りにくく移動が困難になるため、自然とハンピでの滞在は長期に及んでいった

そのため観光も一気に周る事もできたけど、いそがず一日一つずつゆっくりこなしていった


 郊外の遺跡を周ったり



 村の寺院を訪れたり

朝と夕方は毎日2人でヨガとメディテーション


 俺はいつも欧米人と行動するときは昼間は一人で観光して、夜だけ一緒に飯を食う事が多かったんだけど、ポールはなぜか俺の行くとこについて来るので、殆どの時間を一緒に過ごしていた

なかでも面白かったのが毎晩夕食時に行われる難しい話

実は俺もポールも英語を勉強したくて、なるべく外人と行動するようにしていたのだ。だからちょうどいいコンビじゃないかという事で、長い間旅をする事になったのだ

だから話の内容も普段話しなれた内容は避け、少し難しめの話をするようにしていた

そして俺は前からドイツ人に聞いてみたかった事があったが、初対面で話すような話でもないので聞けずにいたことがあったのだ

「じゃあヒトラーの事を聞いてもいい?ドイツ人はそういう話を嫌がるって聞いたからいままで避けてたんだけど」「なんでも聞いてくれ、そんな事気にするドイツ人はいないよ。ただ、前にインド人にいきなりハイルヒトラー!!って敬礼されたことがあったけど、あの時はリアクションに困ったよ」

「じゃあヒトラーの事をドイツ人はどう思ってるの?日本では、確かに歴史的大罪を犯した人物として認知されてるけど、その一方で人を魅了する力や演説の上手さ、頭のきれ具合とか一定の高い評価を受けてるんだ。でもドイツではナチスに関する表現を完全に封印して、それをみだらに公にさらす者には刑罰まで下される法律があるみたいだから。もしかしたら認識の違いがあるんじゃないかと思って」 「ドイツではただの馬鹿 愚か者 それ以外形容のしようがないよ。ただ、一部のクレイジーな連中が未だにヒトラーを崇拝してるけどね」

「ネオナチの事?」「イグザクトリー!!あいつらは頭がおかしくて、アメリカ人見つけたら喧嘩を売りに行くんだ。でも、日本人は大丈夫だよ、二次大戦のときに一緒に戦ったからね」俺「そんなもん?面白いね」

「じゃあさ、日本の戦争責任者は当時の天皇陛下でドイツはヒトラーという事になると思うんだけど。日本では力は失ったものの未だに天皇陛下が存在して、ドイツのヒトラーはもういないよね。一応自殺とか亡命とかいろんな説があるけど、もし生きてたとしても今のドイツを見てる限りだと絶対に排斥されてたはずだよね?この違いは何故かな?もちろん当時の天皇陛下は軍のただの操り人形だったのかも知れないけど、一応公の戦争責任者だったんだから、完全に排斥されててもいいはずなのに」

ポール「それは俺たちドイツ人と日本人が追った傷の違いだよ」「傷の違い?日本人は恐らく原爆と東京大空襲が最大の傷だけど、ドイツとの違いって何?」

「それはやったものとやられたものの違いだよ」「ああ!!なんとなく君の言いたい事がわかってきたよ、続けて」

ポール「ナチス最大の失態は君もしってるよね?」「ユダヤ人虐殺のことだろ?」

「そう。他にも戦争が終わった後ドイツは様々な困難に見合うことになるんだけど、それは全部やられたことなんだ。受身なんだよ。でもユダヤ人の虐殺はやった事なんだ。想像できるかい?ヒトラーの命令でやりたくもない虐殺を無理やりさせられた人たちの気持ちが?俺たちは自分達自身の手でとんでもない事をいけないとわかっていながらやってしまったんだ。だからこそ必死でその血で染めた手を綺麗にするためにナチスを忌み嫌い完全に排斥しようとしたんだよ。それが君達の国との違いさ」 

俺「なるほど。確かに原爆も東京大空襲も受身だね。受けた傷の種類が違うという意見も頷けるよ」

ポール「受けた傷の種類が違えば、その後の展開も変わってくるってことさ」

俺「まるで昔のUKとフランスみたいだね。フランスは革命で王様を殺して、UKは一応権力だけ奪って、シンボルとして残した。その結果二つの国から同じ三権分立を根幹としながらも大統領制と議院内閣制という2大統制システムが生まれた」

ポール「ははは その例えも面白いね」

英語で道を尋ねるのがやっとだった一年前ではこんな内容の話しなんてできなかったし、しようとも今まで思わなかった。だけど、してみると以外にできるもので、しかも凄く面白い

ポールもこんな話を外人と英語でしたのは初めてで面白かったらしく、その後も俺たちは毎晩テーマを一つ決めて、辞書を片手に真面目な話を何時間も続けた

そして大分暮れが近づいてきていた。。。。