2013年12月24日火曜日

インドの楽園アンダマン島の生活が始まる?

飛行機のタラップへ足を乗せると南国特有の重苦しい空気が体中に絡みつく。温度はコルカタよりちょっと高いくらいだが、湿度が全然違う。慣れるまで息苦しさすら感じたが、飛行機を降りた瞬間のこの感覚はどこか懐かしさもあった

きっとこういう感覚を始めて味わったのは、ニュージーランドからフィリピンに飛んだ時だったかもしれない

初めての途上国の一人旅。不安と好奇心が複雑に絡み合い、ドリップコフィーにミルクを入れたみたいに、かき混ぜてもすぐには混ざらず、黒と白の渦を作ってゆっくりと混ざっていく

この重苦しい湿度はその時の感覚をふっと蘇らせてくれる。あの不安と好奇心の不思議なドリップコーフィーを。初めての土地のこういう感覚は嫌いではない


空港のイミグレカウンターでは入島に必要な許可証を簡単に発行してくれる。荷物をピックアップして外に出るとすぐにタクシーの客引きがやってくる

ボートベリアの中心地まで約5キロ。

前日は結局寝れず、空港のベンチに寝転がりながら、コルカタ空港の天井に書かれたインドの文字を眺めながら朝を迎えた。体調もまだ悪かった。普段なら歩くところだが、今回は客引きのいいなりになって目的のゲストハウスまで連れて行ってもらった

アミナゲストハウス。ロンリープラネットに載っている安宿だ。

チェックインしたらビールを買って、抗生物質を飲んで、アラームを昼の14時にセットしてコルカタ滞在時同様そのままベッドに倒れこんだ

目覚ましを14時にセットしたのはフェリーのチケット予約センターが14時から2時間だけやっているからだ。俺は既にコルカタからアンダマンへの往復チケットを予め取っていたので、2週間しか滞在期間が無かった。だから今回は一日たりとも無駄にしないぞと言う意気込みできたのだ

アラームが鳴り目を覚ますと、服を着替えて金と地図を持って外に出た。外はどんよりとしており空は紫色に染まって今にも雨が降り出しそうな雰囲気だった

そんな空を眺めてると急に道を調べてチケットを買いに行くのが面倒になり、気がついたら右手にはチケットの変わりによく冷えたビールが握り締められており、俺は部屋に戻っていた

椅子にゆっくりと腰を落としビールを飲んでいると、外からドラムを叩く様な雨がトタンの屋根を激しく打つ音が聴こえて来た。雷つきのスコールだ。俺はチケットを買いに行かなくて良かったんだと自分に言い訳をして、再び午後の分の薬とビールを飲んで眠りに付いた

翌日の朝目が覚めた。頭はすっきりしており体も軽い、体調はすこぶる良かった。しかし、なにか変だ・・・痒い

腕を良く見ると虫に刺されたような後があり、それが痒い。最初は蚊か何かと思って気にもしてなかったんだけど、よく見ると体中に刺された後がある

それは特にかゆみもなく腫れてもいないし、一見して既に治り掛けてるように見えなくも無かったのでさして気にもしなかった。痒いのは先ほどの腕の一箇所だけ

しかしである、数時間後急に手の甲やその周辺が痒くなり始め、よく見ると先ほどまで治りかけていたと思った虫刺され後が真っ赤に腫れあがっていたのだ

それも凄まじい痒さで本能の赴くままにぼりぼりと掻いていたらいつの間にか虫刺され後は数倍の大きさにまで成長していた。これ以上掻くのもまずいと思った俺はとりあえず日本製のムヒをそこに塗りたくって痒みを抑える事に奮闘した

ようやくムヒで左手周辺の痒みがなくなったと思ったら今度は右腕、同じようにムヒで痒みを抑えていると数十分後には右手、今度は足、次は首と次々と刺され後が復活して腫れあがり、痒みが襲ってくる

一度復活した刺され後も2時間もすると元の色の無い状態に戻り、痒みもムヒ無しに引いてくのだが、数時間後にまた腫れだして痒みとの戦いが始めるのだ。そして体中の各パーツが時間差を置いて腫れ始めるので、一日中からだの何処かが痒くてかゆくてたまらない

恐らく刺されたときに、時間差を置いてやられたから、体の部位によって痒くなる時間差があるのだ。その上痒みも引いたり急に出たりなので、まるでモグラたたきをしているようだった

しかもこの痒みはこの日以来2週間続くのであった

虫刺され後には特徴があって、無秩序に海の岩に大量にくっついたフジツボのように見えなくもないが、よく見るとばらばらに刺された後でも一つのラインをかたどっているのだ。その上全て寝ている間にやられている

そしてこの特徴は主にアジアで猛威を振るっている南京虫に他ならない

噂はよく耳にしていたが、喰われたのは始めての経験。ここまで厄介な奴だとは思わなかった

早速宿のオーナーに報告するも一向に認めようとしない。別に責任を取れと言ってるわけでもないのに、それは蚊だとかなにかのアレルギーだとかぬかすし、今まで一度も南京虫なんて出たこと無いとか言って認める様子がない。そのくせ、部屋には後で南京虫用の殺虫スプレーを撒き散らしに来る。一回も出たこと無いのになんでそんな物を持っているのだろうか??

俺はささやかな復讐のため、これから先アンダマンやアンダマンに行くというツーリスト全てに「Amin guest house」で南京虫にボコボコにされたと言って周った。ちなみに英語では「bedbug」です

無事その日の午前中にhavelock島行きのチケットを手に入れた。

アンダマン島は玄関口となっているポートベリアから各諸島に向うフェリーが運航している。そしてほとんどのツーリストがhavelock島目当てで来るので、中にはポートベリアを素通りしてしまうツーリストも少なくない。俺もその予定だったんだけど、体調不良といつもの怠けが手伝って2泊もして時間を無駄にした挙句、南京虫にボコボコにされるという踏んだりけったりの目にあった

でも、痒いのをのぞけば体調はすっかり回復し、先行きは明るいものとなって来た

俺がこの島に来た主な目的はダイビングだったので、もしこのまま体調が悪いままだったらダイビング所ではなかった。下手したら南京虫の巣窟に何泊もしないといけない羽目になっていたかも知れない




2013年12月19日木曜日

コルカタへ

間抜けな奴ほど人がいい

頼まれてマーケットでダージリンティーを買ってたときの話

マーガレットホープの銘柄指定で頼まれ露天商にその銘柄を伝えると、露天商はそれより一ランク上のキャッスルトンを強く勧めてくる

俺が既に持ってるしこれは俺が飲むわけじゃないからと断ってるのに、英語が理解できないのかしつこく勧めてくる。いいお茶を飲んでもらいたいと思ってるのか、ただ高い紅茶を買わせたいのかその男の心中は定かではないがとに角断って、指定の銘柄を準備させた

値段は少し値下げ交渉して100グラムで450ルピー

細かいのがないから俺は「悪いね」と一言付け加えて彼に1050ルピーを手渡した

すると彼はお釣に900ルピーを渡してきた

お釣りが多すぎる。本来ならお釣は600ルピーなのに彼は900ルピーを渡してきたのだから300ルピー多い計算になる

あまりにもお釣りが多いので、俺が値段を勘違いしたのかと思って一度聞きなおすとやはり450ルピー

つまり俺は300ルピーほど得した事になる。どうせいっつも客を騙すのはインド人の方なんだし、返してやる必要はないかとも思ったんだけど、この間抜けなインド人を見てると気の毒になってきて一度チャンスを与えてみることにした

「これは450ルピーだよな?俺は1050ルピー払ったんだけど、お前のくれたお釣は900ルピーだ。なんかおかしいと思わないか?」 俺は相手の反応を楽しみたかったので、あえて300ルピー多すぎるとは言わなかった

すると少し戸惑った顔をしてから、おもむろに上を向きながら計算を始めた。そして次に男が取った行動は更に俺に100ルピーを渡してきた

俺は苦笑しながら「本当にこれでいいのか?俺はおかしいと思うんだけど」

すると彼はまた戸惑った顔で「何が気に入らないんだ?お釣はあってるだろう?」「俺はそうは思わないけど。おかしいんじゃないこれ。お前がそれでいいなら俺はもう行くけど」

すると彼は更に頭の中で暗算を始め、更に100ルピーを渡してきた。これで紅茶はほぼタダになってしまった。間抜けにも程がある

俺は自分でも気づかぬうちに口調が荒くなってたみたいで、再度指摘をすると今度は泣きそうな顔になりながら「一体どうしろっていうんだよ」と終に計算する事を放り投げてしまった

彼は俺が釣りが足りなくて文句を行ってると勘違いして次から次へと計算もまともにせずに、ほいほい金を渡してくる。それだけ気が弱く、相手が怒ってると思うと気が動転して、冷静に計算すらできなくなってしまうような奴なのだ

よっぽどもう放っといて、返って来た多すぎる釣を持ってそのまま行ってしまおうとも思ったが、ここまで来たら最後まで付き合ってやろうと思って、今一度チャンスをあげた

「よく考えるんだ。この紅茶は450ルピーだろ?俺はお前に1050ルピー払ってお前は俺に1100ルピー返した。俺は多いような気がするんだがお前がそれでいいと言うならもう行くよ。でも、その前にもう一度ゆっくり考えてみろ。俺は別に怒ってないし急いでもいない。だから冷静になってみろ」

すると男はまた計算を始め、その姿を見てるとじれったくなってくるから計算機を貸してやった

そしてようやく「あっ 俺が間違ってた」と言って、俺の手元からそっと多すぎたお釣500ルピーを抜き取った

そして俺がその場を離れようとすると、紅茶を一杯ご馳走させてくれと言って、紅茶を入れ始めた。更に男は俺の買った紅茶をもっとグレードが上のキャッスルトンにただで交換してやる言った

俺がその必要は無いと、さきに述べた理由を説明しても理解できないのか、不思議そうな顔をしていた。でもこれで最初にキャッスルトンを買うように強く勧めてきたのは、ただの彼の善意だと分かっただけでも満足だった

そして帰り際に何か提案してきたのだが、英語が酷すぎて何を言ってるのか分からない。辛うじてわかったのが、次の日の朝、一緒にあるところに行こう、俺はバイクを持っているから連れて行ってやる、と、いうような内容だったと思う

しかし一番重要な、何処に何をしに行くか、という事がわからない。それに俺はインド人と外で待ち合わせはしないことにしてるので、男が待ち合わせの時間と場所を指定してきたときに、わからないから俺のホテルまで迎えに来るように伝えた

来れば行くし来なければ行かなければいい。どっちに転んでも俺が骨折り損をする事はない

約束の時間は朝の6時で俺が起きたのが8時だったから結局彼が来たのか来なかったのかは知らないが、それもまた縁なのでそれでよしとした

そしてその日の夕方ホテルをチェックアウトして、コルカタに向う電車に乗るためNJPステーションに向った

俺の今回のチケットは3ACと呼ばれるもの

前の日記で軽く触れたかも知れないが、インドの電車にはセカンドクラス別名ジェネラルからファーストクラスまで約7種類近いシートが存在し、値段もそのクオリティーよって様々だ

主にバックパッカーと呼ばれる外国人ツーリストが乗ることになるのがスリーパー席か3ACとよばれるエアコン付の寝台車両

インドの長距離列車は殆どが深夜発のなで、必然的に寝台席を選ぶことになるのだ

そしてこの寝台車両とAC付の寝台車両の大きな違いは文字通りACが付いているか付いていないかの違いなんだけど、実は一番大きな違いはそこではない

インドの車両のクラスの違いは、クラスが上がれば上がるほどシートは少なくなり料金が高くなり、下に下がれば下がるほどシート数は多くなり料金も安くなる

それすなわちインド社会の経済ピラミッドそのもの、しいては未だにインドに残る悪習カーストの表れと言っても過言ではない

そしてACの付く席から料金が急に跳ね上がる

例えば今回俺が取ったチケット、NJPからコルカタまでの3ACチケット750ルピーに対して、普通の寝台は250ルピー。約3倍も値段が跳ね上がるのだ。この上には2AC ファーストチェアやファースト寝台などがあるが、一番高い席は飛行機と同じくらいするという事だ

つまり一般寝台とAC寝台では乗客が全然違う。一般寝台には普通の格好をしたインド人も乗ってるが、見るからに怪しい奴、汚い服を着た奴、無賃乗車、なんでもありだ。盗難も殆どがこの車両で発生している

それに比べて3ACに乗ってるインド人は身なりも綺麗だし、いきなり話しかけてきたり、人の事を興味本位でじろじろ見てきたりしない。話しかければもちろん話に応じるが、その対応も実に礼儀正しい

そして一般寝台とAC寝台は鍵付きのドアで仕切られているので、無賃乗車や他の車両の人間が入ってくることはできない。それすなわち寝ている間の盗難の確率は格段に下がるという事だ

その他にもAC寝台になると、車両は綺麗だし、寝る時間になるとシーツや枕などの寝具が一人一人配られるのだ

今の時期のインドの夜は少し肌寒いくらいでACなんて必要ないけど、これらの理由からAC席を好んで選択するツーリストも多く、俺もつい最近からこのAC席に嵌りだした

少々高いが金をケチって高いものを盗まれるより、始めから少しお金を払ってその確率を下げる。大事の前の小事、小さな虫を殺して大きな虫を生かす。それに今まで神経質な俺は一般寝台で寝れた験しが無かったのに、ACだと少し眠れるようになった

これだけの恩恵があると、例え3倍の値段だとしても払う価値はあるし一概に贅沢とは言えないだろう

チケットが高い分逃したときの被害も大きくなるので、乗る時は慎重にならざるを得ない。ましてや以前一度やらかしているので、今回は自分で発着ホームを調べた上で、更に10人近いインド人に尋ねて確認して乗った

俺のボックス席には4人の身なりの綺麗なインド人とドイツ人の年配の女性ドロシーが既に乗っていた

白髪のドロシーはゆっくりとした喋り方で、相手を安心させる雰囲気を持っていて、寝る前の話し相手としては最適であった

列車は翌日の朝30分遅れでコルカタのシアルダー駅に到着。ドロシーも俺も同じ目的地、コルカタ一のツーリスト街のサダルストリートだったからシェアタクシーを提案したら、駅のクーポンタクシーを利用するといって俺にもそれに乗るように言った。一人でも2人でも料金は同じだからと言ってタクシー代を払ってくれた

駅の広場に出るといつもとは違い、駅の広場はリキシャではなく黄色いタクシーが無秩序に溢れ返っている。そしていつものように、プリペイドカウンターを探すドロシーにタクシーの客引きが近寄ってくる

客引きがドロシーに話しかけた瞬間に彼女の顔が急に険しくなり、声も幾分低くなり対応する。まだ向こうが何か言う前からほぼ怒ったような対応に切り替わる。信じられなかった、あんなに穏やかで優しい彼女の豹変振りが

でも、その豹変振りを見えていると、話題には出なかったがインドで相当嫌な思いをしているのだろうという事が容易に想像できた。ドロシーもインドは初めてじゃなく、30代の頃から何回も来ているらしい、そしてその経験上からこの対応になったということだ。ある意味、彼女をここまで変えたインド人もなかなかの技量を持った民族である

客引きにプリペイドを使うからと断るドロシーに今日は休みだという客引き。もちろん俺もドロシーもそんな嘘は信じない。しかし、この時間帯は本当にやってなくて、結局最初に声を掛けてきたタクシーに200ルピーで乗ることにした。高いとは思ったが俺が払うわけではないので料金交渉に口は出さなかった

タクシーの窓から流れていく街の風景を眺めていると、インドのいつもの光景が広がっていた。歩道に無秩序に並ぶ日本の縁日のような屋台に横に転がっている人と犬とゴミの山。

インドの北の端っことは人も街並みも随分と違うんだなと思っていたら、タクシーが急に赤信号の中程で急ブレーキを踏んだ。その先には白い制服のようなものを着た男が手を上げて立っていた

恐らくタクシーが赤信号を無視しようとしたら、警官を発見して急ブレーキを踏んだのだろう

警官らしき男が走りよってくると、ベンガル語でタクシーの運転手と話し始め、1分後には口論に発展していた

運転手はギリギリの所で止まったから信号無視にはならないだろうと意義を唱えてる様にも見えた。しかし、警官の方もゆずる様子はなく、その様子をうんざりした顔でドロシーが眺めていた

するとまた同じ方向から信号無視をしたタクシーが通り過ぎようとして、すかさず警官が停止させた

また口論が始まるのかと思って眺めていると、タクシーの運転手の手の中には何かが握られている

それを警官に差し出すと、警官はまるでマラソンランナーが給水所で水を取るように爽やかな顔をしてさっと手の中の物を受け取ったかと思うと、すぐにそのタクシーの運転手を行かせてしまった

俺「賄賂だね」ドロシー「受け取ったわね」

それを見ていた客も、先に捕まった俺たちのタクシーの運転手もごくごく当たり前のようにことの成り行きを見ているだけだった

俺はまだ賄賂を請求されたり、自分から支払ったりしことは今のところないが、賄賂とはもっと後ろめたさを十分に出しながら、こっそりとやりとりするものだと思っていた

それがあんなに爽やかな顔をして受け取っているのを見せられると、まるではなから法律に規定されているのではないだろうかとさえ思えてくる

なぜ俺たちのタクシーは賄賂払わないのかは知らないが、賄賂を渡したタクシーが行ってしまうと再び口論が再開された

いくら待っても話は平行線を辿っているようで終わる様子も見受けられなかったので、ドロシーに他のタクシーを拾うか歩いていこうと言って、トランクから荷物をとりだしていると、警官が慌てて走りよってきて「あと一分だ 一分で終わらすから荷物を戻して車の中で待っててくれ」と、促された

なぜタクシーの運転手ではなく警官が焦って客を引き止めるのか、なにか裏がありそうだとは思ったが、ベンガル語を理解できない俺たちでは知るすべも無かった

警官は宣言どおり数分後にタクシーを開放して、俺たちは無事にサダルストリートにたどり着いた

ドロシーは電話で事前に宿を予約してて、すぐにチェックインできた。俺はその部屋に荷物を置かせてもらい、自分の宿を探しに行ったが、前日の電車でほとんど寝れなかったせいか体が少しだるく動き回りたくなかったので、結局ドロシーの横にある350ルピーの安宿にチャックインした

俺はアンダマン島へのトランジットで一日だけの滞在予定だったので特に予定もなく、流れでドロシーの観光に付き合った

サダルストリート周辺はビジネス街のようで、丁度日曜だったその日は殆どの店がシャッターを下ろしていて、静かなものだった

ドロシーについてパークストリートやマザーハウスなどを周っている内に体に違和感を感じ始めた

寒くも無いのに感じる寒気や、体の毛穴が全て開いてしまったかのようなすうすうする感じ、重いとも軽いとも感じて取れる足取り

ついにはマザーハウスまでたどり着いたときには懈怠感と吐き気を感じるようになっていた

ドロシーが中の文献を読み漁っている間俺は表のベンチで死んだように座っていたが体調はどんどん悪くなっていき、暑くもないのに汗まで出始めた

帰り際に俺の異変に気づいたドロシーが荷物を持ってあげるといってくれた。自分の2倍近い年を取ったそれも女性に荷物をもたせるのは気が引けたが、俺より身長が頭二つ分ある上にトレッキングで鍛えたしっかりした足腰を見てると、甘えてもいいんではないかと思えてきた。特に体が弱っている俺からは余計に大きく見えた彼女に結局荷物を持ってもらった

俺はそのまま薬局で抗生物質を買い、宿に戻りベッドに頭から倒れこんだ

夜の9時に目が覚め一度体を起こすが体調は相変わらずだった。外に出る気力も無かったが喉が渇いたので近くの酒屋でビールと水を買って部屋まで戻ってきた。ビールと薬を飲んで再び深い眠りに落ちた

次に目が覚めたのは朝の9時ごろ。幾分体調が良くなったように感じベッドから体を起こしてみたが、暫くすると昨日と何も変わっていないことにすぐに気づいた

しかしどんなにだるくてもホテルからは12までにチェックインしなくてはいけない。フライトが次の日の早朝にあったため、一晩空港で過ごしそのまま飛行機に乗るつもりでいたからだ。しかしこの体調で宿の外で一体どうすればいいのだろうか?

そこでまたドロシーに助けてもらうことにした。旅を始めた頃ならこんなずうずうしいお願いを会ったばかりの人に頼むことも無かったろうに、旅を続けていくうちにそんな事全く気にしなくなっていた

彼女の部屋に荷物を夜まで置かせてもらい、昼間の彼女がいない間も部屋で休ませてもらった。特にこの時期のコルカタの夜は結構冷える。この体調でコールドシャワーなんてとても浴びる気になれないので、彼女の部屋で借りたホットシャワーには大分助けられた気持ちになった

そのままバナナと薬を飲み、ベッドを借りて夜のフライトまでぐっすりと眠りについた




2013年12月13日金曜日

歩く

翌朝俺はカメラマンのマスジット共にガントクの町から8キロほど離れた滝へ向った。観光局は歩いてける距離ではないと言っていたが、実際往復16キロなんて誰でも歩ける距離だ。シェアタクシーを使えば片道数十ルピーでいける距離をわざわざ歩く必要がどこにあるんだと言いたかったのだろうけど、俺がハイキングがしたいんだと言ったら納得してくれた

実はスッキムエリアはヒマラヤもある事からトレッキング目的で来るツーリストがほとんどなのだ。俺もその一人だった

だがガントクの街でいろいろと調べていくうちに分かった事は、一人でのトレッキングが禁止されている事。必ず二人以上でガイドの同伴が必要なのだ。特にスッキムエリアの中国の国境に近いところや、更に北の方には特別なパーミッドが必要なのだ

スッキムエリアに入るにはパーミッドが必要なんだけど、それは近くの町で簡単に取れるし金もかからない。しかし、更に奥のエリアに入るには特別なパーミッドが必要だし、それはかなり高額な料金になるという話だ

ガイドにパーミッド、これらをツアー会社でアレンジしてもらうと一日のコストが3000~4000ルピー(5000円程度)にも上るという。さらにコースにもよるが平均で7~10日以上のコースが殆どなので、インドでは考えられない高額な費用がかかってしまう。故に諦めるしかなかったのだ

だからと言ってここまで来て何もしないで引き上げるのも、金と時間の無駄になるという以外にも、氷河を抱いたヒマラヤがあっさりと遠ざかっていくのが後ろ髪を引かれる思いだった

そこで禁止されていないトレックロード以外のところを歩き回ってやろうかとおもっだのだ。思いついたのが適当な距離で目的地を決めて、そこまで歩いていくと言うだけのもの

殆どが舗装された道路で、通常の登山やトレッキングみたいな面白さは無いだろうけど、それでもヒマラヤを眺めながら歩くのも悪くないと思ったの

その最初の試みが街から往復16㌔の滝まで歩いていくと言うものだった。マスジットが写真をどう撮るかも見てみたかったので彼の事も誘った。往復で歩いていく事も伝えたが、その方がいろんな被写体と出会えるので言って了解してくれた

予想通りではあったが、舗装道路をただ歩くのは面白くもないし大した被写体も発見できなかった。マスジットも殆どシャッターを切っていなかった

滝に着いたのは約2時間後。あまりに人工物が多すぎて自然の景観は拝めなかった


彼がフルートを聴きたいと言っていたので持ってきていた。ちょっとした広場で吹いているとインド人が観光客が10人前後集まってくる。15分前後聴くと飽きて去っていき、また暫くすると他のインド人観光客が集まって来て聴いていく。時間が経つと去っていきまた新たに他のインド人が集まってくる。自分の音で人の流れを作り出しているような気がして面白かった。たとえ暇つぶしだったとしても演奏で人の足を止める、これはとても大切な事

晴れていたためか温度も高く音も安定していた。最後のインド人が「ありがとう甘いメロディーを」と言ったのを最後に俺たちも帰ることにした

翌日は郊外にあるリムテックモナストリー(修道院)へ

片道26キロあったので行きはシェアタクシーを使い、帰りは歩いて帰ってくることにした。マスジットは前日のウォーキングで40歳の体に堪えたのか俺が歩いて帰ってくると言ったらついて来なかった

モナストリー自体は景色が良くて、ヒマラヤ山脈を見渡せると言う以外は面白いことは無かった



リムテックは谷を一つ越えた先にあるので、帰りは一度谷まで山を下り、そこからもう一度高度を上げる必要があった。とはいえ、登山に比べれば勾配も緩いし、ランニングシューズでも十分なくらい歩きやすかった



 遠いな・・・


 翌日は最初に訪れるはずだったペリンに向うことにした。既にガントクには5日近く滞在していたので良い頃合でもった。ペリン行きのシェアタクシーにのり約6時間の道のり。午後には到着した

ますます近くに見えるカチュンジャンガ


標高は2100Mとガントクより500M高いせいか昼間でも日陰はかなり寒い

地球の歩き方に載っていた町はこのペリンとガントクだけだったので、ペリンもそこそこ大きな町だと思っていたのだが、町というよりは村。人が生きていくのに最低限の物しかないにも関わらず、ホテルとレストランがジャングルで絡み合って競うように根を張ってる植物のように乱立している。それなのに民家らしい民家は見当たらないし、ホテルの数の割りには観光客は少なく、日本のバブルのころに一時的に流行った観光地のような雰囲気がわびしさを一層引き立てている

世界三位の高さを誇るカンチュンジャンガを近くで拝む以外ははっきり言って何も無い

俺は早速トレッキングの目的地を探すためにゲストハウスのスタッフに尋ねてみることにした

彼が勧めてくれたのがここから100k近く離れたターシディングの町まで歩いていって来いと言うものだった

今までは2キロ以上距離があるとすぐに歩ける距離じゃないと言われ、乗り物を使った移動を勧められるのにうんざりしていただけに、この男は中々話の分かる男である

最後に歩くのが嫌ならシェアジープもあるけどと付け加えるところがまたいい。あくまで歩く事を前提で話が進んでいる

俺はすっかりその提案を気に入ってしまい、早速次の日から出発する事にした

一日目はケチャパリレイクを目指して約30キロの行程

殆どが舗装された道で面白くないが迷う事はないし、途中にミニ売店みたいな物がちょこちょこあり、事前に水やら食料をたくさん用意しなくてすむので荷物もさほど重くはならない

朝早く出発して着いたのが夕方だったがさほど疲れはない。ケチャパリレイクの入り口付近には数件のゲストハウスがあったがチェックインする前に湖の方に行ってみた

ケチャパリレイクは仏教の聖地の一つで、仏教徒にとっては大きな意味がある湖だという事だ。湖は高くない山に囲まれ、山間に落ちかけた太陽光を反射し、その周りを取り囲むようにタルチョがはためいていた



湖には中程まで小さな橋が掛けられていて、僧侶や一般の観光客、皆それぞれ思い思いに湖に向って手をあせている光景がなんともまた聖地らしかった

翌日はユクソムまで。約4時間の山道をトレッキング

午後には着いて翌日はターシリングまで半日ほど歩く予定だったのが、ユクソムのゲストハウスがあまりに居心地が良すぎて滞在が伸び、結局パーミッドの期限ギリギリまで滞在。そのまま慌ててペリンまで荷物をピックアップしにトンボ帰りし、シリグリまで戻るのであった・・・・・


2013年12月11日水曜日

更に北へ

滞在が長期になると、しっかりと根がはえて再度旅を始めるのが億劫になってくる。とくにインドの様に移動中は常にスリやボッタクリに気を払っていないといけないような国は余計に

ダージリンの滞在も長いもので2週間を超え、毎日特にする事も無い。紅茶の飲み歩きをしてみたり、散髪をしてみたり、毎朝8500Mの山を眺めたり、マーケットで色んな色の肌のいろを持った人たちの流れを眺めたり

特別な事は何も無いもないのだけど、きっかけがないと町を出る事が出来ないくらい腰が日に日に重くなっていた

今回はここで友達になったダーラとジェンが同じ日に町を出ることになっていたので、この機会を逃す手は無い。俺も便乗して同じ日に町を出ることにした

そうと決まれば動きは早いもので、溜まっていた洗濯物をランドリーに一気に出して、出発当日に仕上げてもらうようにした。宿の精算を済まし、お気に入りのローカル食堂でランチを済まし、仲良くなった友達に挨拶を済ませて、次の日の出発に備えた

更に北へ、ヒマラヤを挟み中国 ブータン ネパールと国境を接するスッキム地方に行く事になっていた。スッキム地方に何があるのかは知らなかった。ただパトナからダージリンに向う電車の中で、地元のインド人が言った「much better than darjeeling」の言葉がどうしても忘れられなくて、ダージリン滞在中にスッキム行きを決めたのだ

翌日の朝、とくに時間が決まっていなかった俺は、ジェンの電車に合わせてシェアジープをつかまえシリグリまで一緒に行って、いつの日かの再開を約束しそこで別れた

しかし、俺はここで大きなミスを犯していたのだ。俺は元々シリグリはダージリンとスッキムの間にある町だと思っていたら、ダージリンがシリグリとスッキムの間にある中間の町だったのだ。つまりスッキム地方のアクセスはダージリンから直接できるのに、俺はわざわざ一度振出まで戻ってきてしまったのだ。なんとも出目の悪い人生ゲーム


しかもバスターミナルに行ったら、俺がスッキムの最初の目的地にしていたペリン行きのバスが終わっており、シェアジープも出ていないと言われた。シリグリにこのまま一泊して次の日のバスを待つ事も考えたが、今まで長期滞在しすぎたせいか、気持ちは少しでも駒を進めておきたかった

そこで一度バスターミナルでスッキム地方の地図を広げてじっくり眺めてみると、東の方に大きな文字で「GANTOK」と書かれていた。聞いた事ある町だし、他の町より大きな文字で書かれているんだから何かあるだろうと思って早速ガントク行きのシェアジープを探した

ジープはすぐに見つかり、どうやら俺が最後の客だったらしく、荷物を上げたらすぐにジープは出発した

相変わらず詰め込めるだけ人を詰め込むアジアの乗り物。普通の3列席のジープなのに中列と後列は4人ずつ人を押し込み、助手席には2人。このシェアジープと言う乗り物、もちろん何処に乗っても辛いのは変わらないが、乗るポジションによって若干快適さが違うのだ。一番快適なのは助手席。一つの椅子に2人座るとはいえ、同じスペースに4人乗ってる後ろよりは明らかに快適なのだ。次にマシなのが中列 後列席のなかならドア側である。基本的には3人掛けのシートの筈なので、大人が4人も乗ると全員背中を背もたれにくっつける事ができない。常に誰かが前かがみになってないと人が納まりきらない。そんな状態でもドア側に座ればドアに背中をあずける事が出来るので、いくらかマシなのである

俺は今回一番最後の客になったわけだから、選ぶ事はできない。皆が一番座りたくないと思う後列の真ん中の席に、両側からインド人にサンドイッチにされながら座るしかなかった

車はパンクしたり、お茶休憩を取ったりしながら6時間後の夜7時にガントクの町外れに到着した。ひとつ言わせてもらうとすると、きついと言われているインドのローカルバスが天国に感じる

更に街の中心に移動するにはシェアタクシーと言う乗り物に乗らないといけないらしい。最初歩いていこうとしたのだが、道を聞いた流れでいつの間にか乗る羽目になっていた。料金もさすがシェアだけあって市内どこでもわずか20ルピー

タクシーは何人かの客を乗せ急な坂をぐんぐんと上がっていく。成る程、距離はたったの5キロ程度でも歩く事を勧めないわけだ。

道すがらタクシーの中から眺めるガントクの町は実に不思議なものだった。広くてゴミの落ちていない道路に、夜でも綺麗にライトアップされた服飾品のセレクトショップが並ぶ。一体こんな高そうな店に誰が入るんだ?牛もいなければ物乞いもいないし、路上生活者の姿もない

ダージリンもそうだったがここはますますインド離れしてきている

後でガイドブックをみて分かったのだが、ガントクはスッキム州の州都らしく、スッキムでは一番栄えている街。ガントクに最初に来たがために俺はスッキムがいかに田舎なのかという事を後々思い知らされることになるのだ

街の中心でタクシーに降ろして貰い、目に付いた宿を何件か当たってみたがどこも部屋のクオリティーの割には高い。ロンプラに載っている宿は更に街の中心に位置するのだが、適当に宿をあたるより、「バックパッカーに人気」の謳い文句につられてみる事にした

ちなみにスッキム地方は地球の歩き方では殆どカバーされてなく、この辺まで来るとロンプラの方が圧倒的に情報量が強い。バックパッカーに人気らしい「ニューモダンセントラルロッジ」に着いたら早速部屋を見せてもらった

部屋は250ルピーと500ルピーの2種類があって、高いほうの部屋は広くてとに角眺めがいいらしいのだが、既に夜だったために眺めを確認する事はできなかった。しかし、成る程納得、部屋の設備や綺麗さは600ルピー前後のホテルと同じなのに明らかにこちらの方が安い。ガイドブックに載るのにはやはり何か理由があるのだ。俺は狭い部屋が嫌いなため、次の日の眺めに期待して500ルピーの部屋を選択した


日が街を照らすころになると、窓の向こうに巨大なヒマラヤ山脈が姿を表した。まだ頭もまどろむ中目を擦りながら見る外の景色は砂漠に忽然と姿を現すオアシスとなんら変わりはない。昨晩までなにも無かったところに、8500mくらいのカンチュンジャンガが突如として姿を現したのだ。窓越しから見るその景色は絵画でも眺めているようだった

宿の一階はレストランになっており、どういう訳か日本人が多い。そのうちの一人の女性が話しかけてくれた。どうやらメディテーションをしに来ているらしいんだけど、俺がメディテーションは興味が無いと言ったらそれ以降会話が続く事はなかった

日本人とコミュニケーションを取るのを早々に諦めて、隣に大人しく座っていた色の黒い男に話かけてみると、彼は俺を見た事があると言った

実はダージリンにいる時に路上で写真を売ってる露店商の前を通りかかり、じっくりと一枚一枚眺めた事があった。どれもいい写真なんだけど、一枚500ルピーとインドの物価ではかなり高い価格設定。一体どんな人が買うんだろうかと、連れと一緒に話しながら通り過ぎたのを覚えている

その時の露店商が彼で、その時少し俺と話したのを覚えていたのだ。彼の名前はマスジットで、南インドの端っこケララから北インドの端っこスッキムまで何ヶ月もかけて旅をしてきたらしいのだ

驚くべきが彼の旅のスタイル。旅先で写真を撮り、それを露店で売る、そこから得た金で旅を続ける。自給自足の旅のスタイルは正に俺が求めるところ、興味をそそられないはずがなかった。いつもなら適当に話して引き上げるところだが、彼そのものに興味が沸いてしまい、次から次へと就職の面接のように質問を浴びせていった

そして疑問に思ったことを全てストレートに聞いていった「ダージリンで見た写真は覚えてるけど、確か一枚500ルピーだったよね?確かにどれも素晴らしい写真だと思ったけど、一枚500ルピーは高いと思ったんだ。売れた?」「もちろんさ、全部売れたよ。高いと思うのはただの写真だと思ってるからさ。俺は写真を売ってるんじゃなくて、自分のハートを売っているんだよ」

「ハートか・・・俺も売れるハートを持ってるといいんだけど。それでどんな人が買ってくの?普通のインド人にはやっぱり高すぎると思うんだけど」「そうんだね。ダージリンでは高級ホテルがロビー用に大量に買ってくれたよ。もちろん大口だったから値段も半額にしたけど」

「じゃあお金もたくさん入ってきたわけだ」と俺がにやりと言ったら「そうでもない、いつもギリギリでやってるよ。俺は貧乏なんだよ」

「インド人は9割が貧乏でしょ。旅ができるだけ裕福な方だと思うけど」「そりゃそうだけど、やっぱり日本人とは違うよ」と言った彼の手元にあったのは日本のニコンのカメラ

俺も詳しくないから型見ても判断しかねるけど、彼が使っているカメラは5年位前の中級機

それを見て俺はあることを確かめるために急に彼の作品が見てみてみたくなった

「あの良かったらなんだけど、君の作品を見せてくれないかな」「構わないけど恥ずかしいな・・・」

「写真を売って歩いているならもう立派なプロじゃないか。プロが恥ずかしがる理由がどこにある?」「俺はプロなんかじゃないよ」と彼はうつむきなが恥ずかしそうに答える。俺が今まで関わったインド人の殆どが、根拠の無い自信家で大ボラ吹きだっただけに、彼の紳士かつ謙虚な態度はまるで真冬にかじるスイカのように青臭くもあり新鮮でもあった

彼は俺の頼みを了解して、部屋までアルバムをとりに戻り、数分後写真が100枚前後入りそうな分厚いアルバムを2冊持ってきてくれた

一枚一枚、まるでコレクターが自分の集めた切手を大事に眺めるように見ていった。やっぱりだ

何がいいのかなんてまるでわからないし説明もできない。でも、彼の作品はひきつけられる何かがある

俺がそう思っているだけではなく、それが事実なのだ。だから彼は未だに旅を続けてられるし、ここにいる

被写体自体は大したことない。とくに面白くも無いものが彼のフレームに入るとその被写体は魂をこめられた人形のように急に生き生きと躍動的に動き出し、今にも写真から飛び出してきそうになる

俺が気になった一つの白黒写真があった。被写体は老人がチャイを入れてるところで、写真は熱々の鍋を持ち上げ、茶漉しを使いながらチャイを注いでいるところに大量の湯気が出ているお馴染みの光景。ぼーっとみてるとあたかも目の前にチャイがあるようだった

俺が「この写真は味があっていいね」と月並みなコメントをすると彼は「この写真は自分が納得できるまで毎日撮り続けて一ヶ月かけて3000枚以上撮ったんだよ」

俺が驚いて二度聞きすると彼は「写真なんてそんなもんだよ」と一言添えた。俺が確かめたかった事は、作品にカメラの性能がどう影響するかという事だった

彼は時代遅れのカメラでも、腕と手間をかけることによってそれを補っているのだ。そしてそれを理解した上で「写真なんてそんなものだ」と一言だけ添えたのだ

俺は自分とは全然違う彼の生き方やキャラクターを気に入り、彼に一杯奢ってやりたくなった。そのまま酒を自分と彼に買ってやり、彼の部屋で2人で飲み直す事にした

今度は俺の写真を見たいと言うので、撮ったやつを彼に見せてやった

俺はいつも撮った写真で自分でいいと思ったものを選んでFBにアップして、それ以外は削除するかアルバムに保存してしまっている

彼に見せたのはそのアルバムとFBに載せてある写真両方なんだけど、彼が気に入ってくれた写真はアルバムにしまってあった没写真が殆どだった。俺には何がいいのかわからないし、ほとんどたまたま撮れた様な写真ばかりが彼の感性を刺激したらしい

写真はただフレームに収めるだけではなく、大量に撮った中からいい写真を選ぶのもまた技術なのかもしれないと思った

他にも彼からみて惜しい写真があるとアドバイスをくれるんだけど、必ず一言「これはただの俺の意見だから、気を悪くしないでくれよ」といちいち一眼初心者の俺に必要の無い気を使ってくれる

俺はそんな彼の写真を撮ってるところや、被写体の切り取り方を見てみたくなった。きっと得られる者があるのではないかと思った

2013年11月26日火曜日

なんとなくダージリン


あまりにも寒いので俳句を作りました

ダージリン ああダージリン ダージリン 

まずは寒さ対策について

標高2000Mを超える今のダージリンの気温は恐らく真冬の東京くらい。どんなに姿勢のいい人でも自然と猫背になるような気温だ

東京くらいと聞くと大した事無さそうだが、想像してほしい。日本の冬に暖房を入れていないレストランやカフェ、ホテルがあるだろうか?特に北海道なんてやりすぎなくらい室内は暖房が効いているし、建物も寒さに強い様に窓は二重になっていたりドアは2枚ついていたりと、極寒の地に住む人達の知恵が最大限に生かされている。真冬の北海道の居酒屋で半袖で酒を飲んでたのは記憶に新しい

しかし、ここはダージリンとは言えどインド。何をするにしたって日本の五分の一以下のお金できてしまう。そんな場所に無料で暖を取れる場所なんてある筈もない

日本なら外がどんなに寒くてもカフェに非難すれば暖を取れる、バスに乗っても電車に乗っても暖かい。寒いのは外を徒歩で移動するほんの一瞬に過ぎないのに対して、ダージリンはエアコンの効きすぎた24時間営業のコンビ二の様に常に寒い

特にここ一年常夏の東南アジアで過ごしてきた俺には堪える

そこで考えた寒さ対策と洗濯物対策がドライヤーである

マーケットで400ルピーで買ってきたヘヤードライヤー(800W)を部屋の中でつけっぱなしにしたり、布団に突っ込んで暖めたり。一番効果的なのは絨毯の床の上に置いて、風の出てるところに座り、膝の上にブランケットを乗せる。そうすると暖かい風がブランケットの中に溜まり、足はホカホカ、そのホカホカの空気がドライヤーの風によって押し出されて上まで上がってきて、更には体もホカホカになるのである

洗濯物もドライヤーで乾かす。濡れたTシャツの中にドライヤーを突っ込むと、風呂のドアを開けた時の様に大量の湯気が飛び出してくる、これがまた部屋を暖めてくれて一石二鳥である

ただ一つ、困ったことがある。パンツやズボンのゴム。これが中々乾かない

ある日無理やり乾かそうと思ってドライヤーに近づけ過ぎてパンツに穴が開いてしまった。しかも焦げて穴が開いたので穴の周りが茶色い・・・これではまるで・・・俺のアレはパンツも溶かすと思われかねない。人前でパンツ一丁になるのは暫くの間やめた方が良さそうだ

ほんとパンツのゴムなんて無ければいいのに。あっ 俺昔日記で間抜けな奴をゴムの切れたパンツのような奴と表現したのを今思い出したわ

そしてもう一つの悩みがシャワー。アジアの安宿のクオリティーだと水シャワーは当たり前。それでも今までいたような東南アジアでは水シャワーで十分だったし、インドのジャイサルメールのような砂漠地帯にもなると、水の出てくるシャワーを見上げながらホットシャワーなんて出てくるなよと思ったものだ

でもダージリンでは話が違う。流石に水シャワーを垂れ流しているホテルは殆どないが、ホットシャワーに関する対策はホテルによってまちまちなのだ

日本のように給湯器の電源を入れると無限に心地よい温度のお湯が供給されると思ったらそれは大きな間違いである

お湯の供給の仕方もいろいろあるが、一番一般的なのは電気式の給湯器。5リットルくらいのタンクに沸かしたお湯を溜めてから供給すると言うものだが、これが厄介なのだ

この寒さだと5リットル分のお湯が沸くのを電源を入れてから30分近く待たないといけない。更にはタンクにあるお湯を使い切ってしまうと、あっと言う間に水シャワーになってしまうのだ

いくら電源を入れっぱなしで使っていても、お湯の供給がリアルタイムに追いつかないのだ。なんともばかばかしいシステムであるが、これがアジア

タンクにもいろいろな大きさがあるが、安宿で使っているのは大体5リットルなので、シャワーを出しっぱなしで使うと5分も持たない。では止めながら使えるかというとそれは辛い。なんせこの寒さだ、シャワーを止めた瞬間に体は一気に冷えだす

ホテルによってはホットシャワーの使用時間が決められていて、時間を過ぎると電源を切られてしまう。電源を切られてもタンクに入ってるお湯はそのまま使えるのだが、なんとなく電源が入っていないと不安になるものだ

とに角この事を最初知らなかった俺は、何度もシャワーが途中で水に変わったり、一番酷かったのは水すら出てこなくなったときである

長風呂の静香ちゃんなら凍死確実

ホットシャワーの設備を整えてないホテルはバケツにお湯を入れて持ってきてくれるらしいが、それでどうやってホットシャワーを浴びればいいのやら、想像ができない






何はともあれドライヤーを買ったのは大成功だった。


山から帰ってきた次の日の夜、ダーラと食事をする約束をしていた

気が合うんじゃないかと思ってジェーンも連れて行ったんだけど、意外と話が弾まない

数分もすると2人とも俺に話しかけてくるので忙しくてしょうがないし、ジェンは結局途中でお腹一杯になったと言って帰ってしまった

協調性という概念を我々は知らない。 ダージリンにいる間ジェンとは昼ぐらいから合流して、観光する事が多かったんだけど、意外と一緒にいる時間は殆ど無い

ランチも食べたいものが違うと、わざわざ時間を決めて待ち合わせしてもすぐに分かれて別々のレストランで食事をしたり、買い物もどっちかが飽きると、いつの間にどちらかがいなくなっている

携帯電話が無いのではぐれると探すのが大変だし、俺もジェンもそこまで真剣に探したりはしない。小さな町なので適当に歩いてればどっかでばったり再開するからだ

ランチはジェンと、ディナーはダーラ、それにたまに地元の人と、その日以降こんなサイクルで一日一日を消化していく事が多かった

たまに日本人にも会うんだけど、「こんにちは」とお互い挨拶する程度で、それ以上話が弾むこともない。日本人だからって仲良くしなくてはいけない理由は何処にもない

例え言葉の壁が多少あっても、違う文化を知るほうが俺は楽しかった

ある日ダーラにフルートを聴かせたら、演奏の対価にビールをご馳走してくれた。実際ダージリンは寒くてフルートの音がちゃんと出ず、演奏は散々だったにも関わらず

そして彼女は言う「アイルランドの物価はインドに比べると大部高いわ、でも路上でフルート吹けば旅費位はすぐ溜まるわよ」 「それは俺も良く考えてる、でもインドでそういう文化はまだ浸透してないから試してないけど、アイルランドならいける?」

「アイルランド人はそういの大好きだから、お金稼げるわよ」 なるほど、ヨーロッパ行ったらやってみようと思ってたけど、実際どの程度受け入れらるのかわからなかったから多少の不安はあったが、やってみる価値はあるようだ

それに彼女が言うには、ギター弾いて歌を歌ったりするより、バイオリンやフルートを吹く方がアイルランドでは受けがいいらしい

よくよく考えると、ここまでの話は俺がアイルランドを訪れる事を前提で話が進んでいる。そこでさらに少しずうずうしいお願いをしてみた

「実は俺が旅で知り合った日本人バックパッカーの何人かはイングランドに入ろうとして、入国拒否されてるんだ。理由はよくわからないけど。やっぱアイルランドも同じくらい厳しいのかな?」

すると彼女は俺が言わんとしてることを察したのか「そうねアイルランドも同じくらい入国審査は厳しいわ、だからあなたが来るときは私がアイルランドでの保証人になってあげるわ」

「本当に??入国のフォームに名前とか書いていいの?」「もちろんよ、目的欄には友達に会いに来たって書いて、私の住所と電話番号を書きなさい、そしたら間単に入れるから」と言って、彼女は自宅と携帯に住所を書いたメモを俺に渡してくれた

「そして、アイルランドから陸路でUKに渡れば、いくらか入りやすくなるはずよ。もちろん私の家に何日でも泊まっていいわ。主人もトランペットとギターを弾くから喜ぶはずよ」 これはこの上のなく有難い申し出だった

ダーラ自身はアイルランドではヨガの先生をしていて、旦那さんは大学で陶芸科の教授をしている割と裕福な家庭のようだ。そして20歳の息子は大学を辞めて現在タイを旅行中なのだとか

アイルランドの人口は400万人程度で、その人口の半分がダブリンに住んでいる。貧富の差もインドや日本のように無く、全体を通して安定しているらしい。そしてお隣のUKとは大変仲が悪い

こんな事も旅に出て、実際にそこの国の人と話してみるまでは知らなかった

この旅ではなぜか、フランス人 ドイツ人 アイルランド人 中国人 と縁がある

文化は全然違うんだけど、なんとなく考え方が日本人に似ているような気がする。あくまでツーリストだけに限った話だけど。そしてある国の人とは旅先でも学校でも何回も関わっているのに、未だに友達になった事は無い。恐らく今後も無いだろう

そして同じ日にダーラはアイルランドに向けて、ジェンはブッダガヤに向けてそれぞれ旅立つ事が決まっていた。俺もそれに合わせるように、更に北を目指してダージリンを後にすることにした

2013年11月23日土曜日

ダージリンでの素敵な出会いたち

ダージリンには前回の日記で少し触れたトイトレインと呼ばれる蒸気機関車が観光用として走っている。またの名をヒマラヤ鉄道とも言うらしい

俺がそのチケットを買おうと時刻表を眺めていたら、アジア人の若い女性が後ろから流暢な英語で話しかけてきた。

背は小さく線の細い体つきに眼鏡をかけたその女性もチケットを買おうとしてたので、地元の人間じゃないのは分かったが、着ている物や顔だけじゃ判断がつかない。それだけダージリンのインド人は日本人や中国人に顔が近いのだ

トイトレインは人気の観光資源で二日後じゃないとチケットが取れず、流れで同じチケットを買うことになった俺たち

彼女の名前はジェンで中国人。この日から暫くの間ダージリンでの相棒となった

なぜ俺に話しかけてきたかと言うと、俺が日本人に見えたからだという。というのも、昔ジェンがタイを旅しているとき、軍資金が底を尽き困っていたところ、日本人バックパッカーが宿代や食事代を全部払って助けてくれたらしい。それ以降日本人が好きになり、日本人宿にもよく泊まり、やはり行く先々で親切にしてもらい、印象はすこぶる良いと話してくれたが、そんな日本人ばかりじゃないとすぐに気づくであろう

彼女の生まれはチベットのすぐ近くで、チベタンと中国人のハーフ、これがまた中国では面倒くさいらしい。どういうことかと言うと、チベット人は中国人を受け入れず、中国人もまたチベット人を受け入れない。あくまで傾向の話だが

それ故自分の国では生活し難いし、中国人が嫌いとも話していた。そして日本人を羨ましがってもいた。

簡単にVISAカードを持て、水戸黄門の印籠の様な日本のパスポート、他民族同士の諍いも殆ど無い。中国のパスポートは色んな国で入国の際に問題となるらしい

外国人に指摘されて初めて自分の恵まれた環境に気づく。なんの努力も苦労もしないで、ただ日本と言う国で育っただけでこれだけの恩恵を受けることができる

上だけではなくたまには下も見てみる、そうする事によって気がつくことも意外に多いのかも知れない。気がついたところで何もできやしないし、何かやろうと思うほどできた人間でもないが、考えるくらいの事は出来るかもしれない。でも、考えたところで、何か意味あるのかな?

ジェンだけではない。前にベトナムを一緒に旅した中国人も他の人には中国人だという事を言わないでくれと言われた事がある。ベトナム人は中国人嫌いだから。そんな彼も中国人を良く言わない

俺が旅で知り合った中国人は、賢くて親切で、気のいい奴ばっかだけど、やはり彼らは口を揃えて中国の悪口を言う。同じ中国人なのに

中国人の悪い評判はあちこちで聞くが、評判どおりの中国人に会った事は一度もない。いや、分かっている。外国に出てこれるような中国人はそれなりに裕である事

裕福な家庭で育てば、教育もある程度は自分で選べるし、正しい歴史認識もできる。中国政府が必死になって国外からの情報を遮断しようとしているのは有名な話だ。フェイスブックのようなソーシャルサイトの制限もその一環であろう

時に自分自身でも不思議に思うこともある。殆どの中国人や某国が教育によって捻じ曲げられた歴史認識をしているのを見て、自分の歴史認識は果たして正しいのだろうかと?もしかしたらその他大勢の中国人と同じように自分も勘違いしているのではないかと最近思うことが多くなった

では正しい歴史はどうやって知ればいいのだろうか?世界を歩き回った所で一片の曇りもない真実に出会うことができないのは薄々気がついている

そんなあやふやで曖昧な歴史認識を一生懸命磨き上げてさも真実のようにして一体何がしたいのか?結局金と領土が欲しいだけだろう

少なくとも俺の友達の中国人たちは、無駄に領土を獲得しようとする中国の政策に嫌気がさしているらしい

俺にとってはこういう考え方を持った中国人の方が一般的になっている。それは中国に行くより先に海外で中国人に接触してるからかもしれない

特にジェンはすんでる所もチベットのすぐ近くで、村そのものがほとんどチベットの文化を受け継いでいる

それだけに彼女は敬虔な仏教徒だし、この旅もインドの仏陀の縁の地を周るのが第一の目的らしい。

ある日俺が寒くて旧型のプロペラ機のようにのろのろ飛んでいる蚊を叩き潰そうとした時に「ころしちゃ駄目」と注意された

頭に血が登ると普段英語で散々汚い言葉を吐いてる彼女の口から出た言葉とは思えなかった

「私の血なんていくらでもくれてやるわ」 「でも蚊は血を吸うだけじゃない、知ってると思うけど様々な厄介な病気を媒介するんだぜ」

「しっているわ、だから吸う時に血を分けてあげるから病気だけは持ち込まないでってお願いするの」「そんなんで本当に蚊が理解してくれると思ってるの?」

「さぁ わからないわ。でも私は今のところ一度もマラリアにはかかってないわ」「そんなんでかからなくて済むなら、俺だっていくらでも血を差し出すよ」

その言葉使いからはとても敬虔な仏仏教徒は思えないが、言っている内容は仏教徒そのものだ。このちぐはぐ感が彼女のキャラクターを独特なものにさせていて面白い



ダージリンでのも一つの出会い

それはトレッキングで

ダージリンではネパールとの国境沿いを3日から5日間かけてサンダークプルと言う3600Mの山を目指すトレッキングが流行っている

どこのツアー会社でもここのオーガナイズトレッキングを扱っていて一日辺り1500~2000ルピー。山小屋やガイド、交通費と食事込みの料金だが高い

いろいろ調べると、国境沿いを歩くため途中にチェックポイントがあってガイドを連れていないと通れないと言う情報と、いなくても問題ないと言う間逆な情報が入ってくる。どっちが真実かは未だにはっきりしない

安全面で言えば、道も分かり易いし、危険な箇所も無いので、地図さえあればガイドを連れて行くほどでもないらしいが、規則的にはあやふやなままだ

俺はガイドを連れて歩くのも嫌いだし、無駄なお金もかけたくなかったので、とりあえず食料だけ持って、必要の無い荷物は全部ジェンに預けて一人で登山口のある小さな町まで向うことにした

その道中で知り合ったのがアイルランド人女性のダーラ

彼女の場合はツアー会社に頼まず、自分でガイドと山小屋の予約を手配してここまで来たのだ

そこで彼女の提案がガイドをシェアして2人で登らないかという事だった

俺は三日で全行程を消化して下りて来ようと思っていて、途中までのピストンで一泊二日の彼女の行程とは予定が合わなかったが、ガイドがいないために途中で追い返される可能性も拭いきれなかったので、彼女の提案をのむ事にした

それから先のことは山頂についてからまた考えればいいと思ったし





太陽に手を伸ばすように枝をはった広葉樹林の隙間から漏れ出してくる木漏れ日を通り過ぎながら高度を上げていく

この日は約14キロ、1000Mくらいの高度を上げる程度の軽いトレッキングの筈なんだけど、どうも歩きにくい。それもそのはず、俺はトレッキングシューズをマレーシアのキナバルを登った後重くて捨ててしまったのだ。だからそれ以降はペラペラなランニングシューズでトレッキングを続ける羽目になったのだ

基本的には問題ないが、靴底がつるつるなためしょっちゅう滑るし、長時間歩くと足首が痛くなってくる。その点トレッキングシューズは良く考えて作られているもんだ。なんせ俺のランニングシューズは2000円なんだから。舗装道路を走るには最高の相棒なんだが


ダーラはダーラで既に51歳。心臓にも問題を抱えてるらしくあまり激しい運動はできない。高度を上げると酸素も薄くなるし、最初の急坂は彼女の心臓を苦しめたようで、5分歩いては休憩の繰り返しを余儀なくされた

俺はなんの予定もなしに山に入ったので、遅い分には一向に構わないのだが、ガイドがイラつきだす

丁度この日はインド全体で大きな祝い事ドゥワリの時期で、俺たちを山頂まで連れて行った後、その日中に急いで下山して、家族と祝いたいらしいのだ

気持ちは分かるがこれが彼の仕事なのだ。そこを急かすのはお門違いと言うものである。だからガイドを連れて行くのは嫌い

俺もダーラにはゆっくり歩くよう指示した。俺たちは急ぐ必要ないのだから

景色だってこんなにいいんだし









道中には小さなカフェやミニ売店、村などがあり、日本の登山とは大分違う。食料もいちいち持ってくる必要なかった

結局俺たちがその日の目的地、サンダークプル手前の山頂付近に着いたのは予定より3時間遅れてのことだった。ガイドも村に帰ることは諦め、一泊してから帰ることにしたようだ。だからと言って不貞腐れたり、文句を言ってきたりはしなかった。基本的に人はいいのかもしれない。そう思うとなんだか可哀想にもなってくる

予約をしていなかった俺は山小屋が空いているか不安だったが、それも杞憂に終わった

山頂の村には二つの宿泊施設があって、ダーラが予約してあった山小屋は少し高かったので、そのもう少し上にある宿に決めた。一泊200ルピー。ネパール人家族経営のこの宿は宿泊客は俺しかいなかった。そしてここはネパール側なんだと教えてくれた

このトレッキングロードはネパールに入ったりインドに戻ったりを繰り返しているのだとか。だからここら辺の村人は全員ネパール国籍


夜は食べ物を持ってきていたので、山小屋で食事をする必要も無かったが、一人で食事するのも面白くないので、ダーラの泊まっている小屋の食堂で食べることにした

そこには他にも数組の白人トレッカーがいた。その中の一組が俺が日本人だと知ると「村上知ってるでしょう」と言ってくるが「?村上?誰?日本にはそういう名前の人がたくさんいるんだよ」

「村上だよ、作家の」作家と言っても、村上春樹と村上龍がいる。でも海外で有名なのは明らかに村上春樹の方だ

「村上春樹?」「そうそう村上春樹だよ。彼の本はハンガリーでも人気で、私達も大ファンなんだよ」と、ハンガリー人の老夫婦は声を揃えて嬉しそうに言う

「何を読んだの?」「全部だよ、ハンガリーで売ってる彼の本は全部読んだよ」

「凄い!!俺だって半分くらいしか読んでないのに。どの作品が一番好き?」「選べないよ、どれもそれぞれ個性があって何回も読み直してる」

実は俺も村上春樹の大ファンで話は大いに盛り上がった。まさか白人と村上春樹について語り合う日が来るとは思いもよらなかった。ちなみにダーラは知らないと

他にもお互いの国の文化の話をビールのつまみに暖炉を皆で囲み夜もふけっていった

次の日先に進むか、ダーラと一緒に戻るか決めないといけなった

結局俺はダーラと戻る事にした。久しぶりのトレッキングで筋肉痛や疲れはないものの、なんとなく満足してしまっていた。それにダーラと話しているのも凄く面白い

彼女の口癖はアメージングとファンタスティック!!なんでも文句を垂れる前にそれを楽しむ努力を怠らない。彼女のそのなんでも前向きに捉える姿勢を尊敬していた。俺も年取ったらこんな人になりたいと

2013年11月20日水曜日

ダージリンでのハッピーライフ

高度を上げるにつれ車内の気温はどんどん下がってくる。この中で半そでのままの奴なんて俺くらいなものだ。着る物はジープのルーフに括り付けられた荷物の中だし。下手こいた

蛇のとぐろの様な山道を容赦なく上がっていくので車酔いしてゲロはく奴もでてくる。だから寒くても窓は開けっ放し。

山には時折段々畑が広がっており、いつもとは違い背の低い木が広がっている。いちいち説明されるまでもなくそれは茶畑だとわかる。なぜなら俺のジープはダージリンに向って山を上っているのだから

いつもと違うのはそれだけではない。人の顔。ジープに乗っている客は全員インド人なのだが、色がインド人ほど黒くないし、顔が日本人みたいな顔した奴もいる。

話してみてもインド人独特の馴れ馴れしさやフレンドリーさがない。全体的に落ち着いていて、親切ではあるのだが過剰ではない、まるで日本人みたいだ

それもそのはずダージリンはネパールやブータン、チベットとの国境が近くそれぞれの文化が流れ込んできて、人の血も文化もミックスされているのだ

それでも肌の色が変わるだけでここまで違うのかと驚かずにはいられなかった。もうイライラしなくて済みそうだと、到着前のジープの中からすっかりいろんな事に期待胸を膨らませていた

シリグリからダージリンに向う中、ジープの走る隣を一本の電車のレールがずっと併走してついて来る。これはヒマラヤトイトレインと言って、蒸気機関車のレール。ちょっと前まではシリグリ駅からダージリンまでの7時間の旅を蒸気機関車に乗って楽しむことができたのだ。一応世界遺産に登録されているらしい

ちなみに乗り合いジープだと2時間半程度で、トイトレインは完全に観光用の乗り物。しかも今では数年前に落石で運休停止になってから復興の目処が立ってないらしく、一部期間でしか運行されていない

その証拠に出発地点のシリグリ付近では線路が完全に泥やゴミに埋もれてどう見ても電車が走れる状況には見えなかった

ダージリンはユナイテッドキングダムの植民地時代に避暑地として栄えた町らしく、向う途中にも山の斜面に段々になって栄えてる巨大な街が突如として出現する

丁度下校時間だったのか、路肩には制服姿の学生の集団が歩いている。他の北インドと違って教育が広く行き渡っているのかもしれない。あまり貧乏臭さも感じない

ジープがダージリンに到着したら自分の持っている着る物を急いで取り出して着たがそれでも足りない。ニュージーランドで買ったダウンを持っていたのだが、袖がない

なぜあの時金をケチってダウンジャケットじゃなくてダウンベストを買ってしまったのか、昔の自分をこの日ほど呪った事はない

背中を猫の様に丸めて目星をつけてある安宿街に向う

寒さはあっという間に解決した。ダージリンは山の斜面に段々畑の様に栄えている街だ。横の移動は楽だが縦の移動はバックパックを背負っているときはこたえる。あっという間に体は暖まり、汗がにじみ出てきた

時間はまだ7時だというのに、殆どの宿のレセプションが閉まっていたり、フルだったりでなかなか決まらない

結局リシュケシュで知り合った日本人家族が滞在している宿に落ち着いた

なんと言ってもここの宿の素晴らしいところは、外の温度と中の温度が同じ所だ。夜なんて寒すぎて布団の下に手持ちの寝袋を重ねないと眠れない寒さ

洗濯物も乾かない。3日も干せば乾くと聞いていたのだが、なぜか俺の部屋だけ乾かない。速乾性のタオルですら3日干しても濡れたまま。他の洗濯物はむしろ干した時より水分含んでんじゃないかってくらいぐしょぐしょのまま

これは近日中に何か対策が必要だ
宿からの景色。晴れていればヒマラヤ山脈が見渡せる

次の日早速買い物。もちろん暖かいお召し物だ。

アウトドアショップでアウターを2500ルピーで買う。ノースフェイスなどのブランドジャケットも2000~3000ルピーで売っていて、日本に比べると大分安い

インナーはマーケットで買い揃え数百ルピー。ここまで買い物して思ったが、ぼったくられてる様子は全くない。その分値引きにもあまり期待はできないが、買い物するたびに値引き交渉をしなくて済むのは楽でいい

値引き交渉が好きな人もいる。気持ちは分かるが俺には理解できない。結局どんなに頑張って値下げ交渉したところで通常の価格より安くなる事はない。ただ値下げ幅が大きいと凄く頑張ったような気がするし、その分安く買ったような気になる。だったら最初から通常の価格で買えた方が楽だろう

そしてメインの買い物。

それはもちろん紅茶である

日本で紅茶を買うときは大体インターネットで注文して買っていたんだけど、その際には銘柄で注文するのだ。銘柄と言うのは茶園の名前

ダージリンティーといっても茶園 グレード 摘む時期によって全く値段もテイストも違う

高ければ美味と言う訳でも無いし、安いからと言って不味いわけでもない。どちらかと言うとその人の好みがしめるところが大きい

俺が日本でよく飲んでて覚えてた銘柄 マーガレットホープにキャッスルトン

ダージリンは大きな街ではないが買い物には困らない

段々畑のような街の一番下にはメイン通りを挟んで大きなマーケット、中段にはツーリスティックな小物売り店にレストラン、この中に紅茶専門店もクローバーの中に潜む四葉のクローバーの様に紛れているのだ

店によって趣が異なり、適当な詰め合わせを売っているショップや、茶園ごとに別れていたりするマニアックな店

キャッスルトンやマーガレットホープのような日本に頻繁に輸入されている銘柄は探すのに手間取らない。たとえ入ったショップで扱ってなくても、聞けば教えてくれる。この辺が他のインドと違うところ。北インドの真ん中辺りなら、騙して売ろうとするか、不貞腐れて知らないと言われるかのどちらかだろう

教えてもらった店に行くと、双方の銘柄が見つかり値段を聞くと100グラムで400(700円)ルピー程度。日本で100グラム買うと4000~5000円程度 思ったとおり低価格

ちなみにこの店は日本人にも固定客がいるらしく、中谷美紀もうちの顧客だと言っていたが、俺が誰?って聞くととても残念そうにうなだれていた。名前は聞いた事あるんだけど、顔が出てこない

紅茶には大きく分けるとファーストフラッシュ セカンドフラッシュ オートンの3つがあり、摘む時期によって呼び方が変わる

ファーストフラッシュは春摘みで、すこし青臭くフルーティーで甘いのが特徴。セカンドは夏摘みで、一般的に日本で紅茶として飲まれているのがこれ。オートンは秋摘みで一番濃厚らしいんだけど、俺はあまり飲んだことがないので分からない

そして一番高級な紅茶として扱われているのがシルバーチップと呼ばれるもの。摘む時期はよくわからないんだけど、茶葉の先っちょの3つに別れてる新芽の部分だけを摘んで発酵させて作った希少価値の高い紅茶

つまりはその年の品評会で一番高い評価を得た茶園のシルバーチップが世界一高級な茶葉という事になるのではないだろうか?しかしながらそういう茶葉は全て輸出されてしまうので普通の方法ではダージリンで買えないらしい。俺は一度だけ日本で買ったことがあるけど、50グラムで8000円位だったかな?あっさりしすぎてて好みではなかった。恐らく二度と口にする事は無いだろう

自分の口に一番あう紅茶がキャッスルトンのファーストフラッシュ。しかし、この紅茶もそもそも春摘みで殆どが海外に輸出されてしまっているらしく、ダージリンで買えないという事が判明した

マーガレットホープはあったので、あとは店の人のお勧めで他のファーストフラッシュや飲んだことない銘柄などをいくつか買い揃え、結局トータルで600グラム近い紅茶を買っていた




使った金額は高々2000ルピーだが、インドの相場から考えるととんでもない浪費である。

しかし、この日のためにうざいインド人と毎日のように激しい口論を繰り返し、時には張り倒し、時には我慢して、またある時には頭を埃だらけにしてローカルバスに数十時間乗り続け、意味の分からない仏陀の足跡を追いかけたりして2ヶ月かけてここまで来たのだ

贅沢させろ!!

こうしてダージリンでのハッピーな浪費生活がスタートしたのであった

ちなみに仏陀の足跡を追う旅は完全に挫折しました。ナーランダーに向うバスを寝坊して乗り過ごした時点で心がツララのようにポッキリ折れ、地面に突き刺さったまま後にしたのであった。また機会があったら俺の心のツララを回収しに行くかもしれないけど、そのころには溶けてるだろうな~ 御免よCさん・・・この日記を見ていないことを祈るばかりである


 ダージリンの街から歩いていける距離にハッピーバレーという茶園があって、無料で園内を見学できる
 




2013年11月7日木曜日

仏陀の足元でインド人を怒つく

奴が言った50ルピーよこせの意味が分からなかった

そもそもホテルからホテルの移動だからフリーという話だったはずである

俺はバイクの後ろにまたがりながら相当イラついた態度でこのバカ男の要求を拒否した

男は英語が喋れないのかただ頑なに50 50 と繰り返し、俺はそれに合わせてNO NOと繰り返す

こんなやり取りが何度か行われた後、俺を後ろに乗せたバイクは男の雄たけびと共に急にスピードを上げだした

地面のコンクリートが少しずつ溶け出して、やがてただの灰色の絨毯になると今度はグラグラと揺れだした。バカ男が蛇行運転を始めたのだ

嫌がらせのつもりだろうか?こんな事をして本当に金を払ってもらえると思ってるのだろうか?それは大間違いだ。少なくとも俺相手に

俺は後ろから大きな声で止める様に警告した。いつもアレをやる前は必ず警告することにしている。それは俺のインド人に対する大いなる優しさと愛である。しかし、大抵はその警告も意味をなさない

男は俺の忠告を無視してますますスピードを上げだした。こうなったらしょうがない・・・

俺は体を支えるためにバイクの後ろで体を支えてた右手を慎重に外し、男の首もとにそっとまわした。ちょうど恋人同士のカップルの男性が後ろから女性を優しく抱きしめるように

そして蛇がゆっくり呼吸しながら絞め上げるように、俺は男の首を右腕で絞め上げながら左手で外れないようにロックした。俺はプロレスはあまり詳しくないが多分これはチョークスリーパーという技だろう

一度かけるとどんなに体格差があってもまず外すのは不可能。ただ動いてる相手にかけるのは困難を極め実戦向きではない。しかし、今回の場合敵は無防備に近い

後ろからいきなり頭ぶん殴って猛スピードのままずっこけられるより、少しずつ絞め上げて停止してから息の根を止められるこっちの技の方に分がある

ゆっくり締め上げながら止める様に警告すると、男は喘息患者の様に声にならない悲鳴を上げて目に一杯涙を溜めている。そりゃそうだろう、これだけきつく絞めれば声はでまい

バイクは少しずつ速度を緩め、やがて停止した

しかし、俺のイライラはまだ納まらない

バイクが止まっても俺はそのまま絞上げる力を強めていった。落とすつもりだった

しかし、遠くの方でインド人ファミリーの視線を感じる。警察を呼ばれるのも面倒なので離してやり、その代わりバイクを数発思いっきり蹴飛ばしてやった

すると男はマンガのような悲鳴を上げてそのままバイクで逃げ去っていったので、後ろから汚い日本語で怒鳴り散らしたら、周りのインド人がドン引き。。。。これぞインド人もビックリというやつだ



俺がブッダガヤの次に訪れたのが70キロ離れたラージギルという町

ここも仏陀縁の小さな町で、町の中心地には竹林精舎、町から7キロ離れた郊外には多宝山といって仏陀が何かした山と、その更に上の山には日本の日蓮系が建てた寺などがあり、今ではこの町の観光資源となっている

俺が最初に訪れたのは町の中心地にある竹林精舎

竹林精舎とは、迦蘭陀(カランダ)長者が所有していた竹園で、当初は尼犍子(ジャイナ教)に与えていたが、長者が仏に帰依したことでこれを仏教の僧園として奉じ、頻婆娑羅(ビンビサーラ)王が伽藍を建立したといわれる。天竺五精舎(天竺五山とも)の一つ。WIKIより

読んだところで何のこっちゃか意味が分からなかったが、そういう事らしい
 驚いたのが外国人は入場料100ルピーもかかるのに、見事に何も無い

上の写真を見て欲しい、これでも一生懸命いい写真を撮ろうと努力したのに、ただのハタと竹・・・ハタと竹って・・・お子様ランチじゃないんだから

一体この精舎で何を見たらいいのか、何を理解すればいいのか、わからぬまま後にする羽目になったのである

誰か教えて欲しい、この精舎の価値や意味といったものを

次に向かったのが多宝山と呼ばれている場所

ここからは7キロでちょっと遠いんだけど、戦う爽やかリッチパッカーとしては、常にトレーニングを怠らない努力が必要だと思ったので歩いて向う事にした

  一応こういう乗り物もあります

山に向い歩き出すと、少しずつ路肩からみやげ物屋やレストランが減っていき、やがて人の往来が全くなくなる何もない林道へと変わっていく

たまに通るのは工事用の車両かバスくらい。または観光客を乗せた上の写真の乗り物

俺がもくもくと歩いていると前から頭悪そうなインド人が両手なし運転で歌いながらこっちの方に向ってくる

距離が近づき俺の存在に気づくと、両手を叩きながら「こーりあん こーりあん」と大きな声でにやにやしながらこっちの方にチャリを走らせてくる

明らかにバカにしている。俺をバカにしてるのか韓国人を馬鹿にしているのかは知らないけど非常にイラつく。顔がムカつく

そのまま手を叩きながら俺の横を通過した瞬間に軽く馬鹿の乗ったチャリに体当たりをかまして見た

すると次の瞬間後ろの方から派手な音が聞こえてきた

見事なまでにずっこけてアスファルトの地面に車に潰された蛙のようにひっくり返っていたのだ

まだ気がおさまらなかった俺は、腰に入れてあるナイフを引き抜いて刃先をちらちら見せながらゆっくりとバカ男に近づいていった

もちろん刺す気なんてさらさら無い。ちょっと脅かしてやろうと思っただけだし、逆上したらナイフを持ってない方の手でお仕置きすれば言いだけの話である。これはただの遊びだ、勘違いしないでほしい

男はナイフを見るなり顔色を変えて、前日のバカインド人同様慌ててひっくり返ってるチャリを起こして一目散に逃げていった

なんかスッキリした

なぜか田舎ではこういう馬鹿が多い

いちいち相手にする俺も愚かだが、こうやって本気で切れる前にストレスを解消していかないと、近いうちに強制送還になりかねない

最近の日記ではインド人をしばいてる内容が多いが、決してインド人がこんなやつばかりというわけではない

実際電車の中だったり、街で道聞いたりするインド人は皆親切で人懐っこい。逆に向こうから話しかけてくる奴は基本的にはろくでもない奴が殆ど

でも、こんなうざい旅ももうすぐ終わる。だって次はダージリンなんだから!! 長かった 涙



 これは多宝山の頂上にある仏陀が何かしたところ。ぐたぐたでごめんよ。でも本当に興味がないんです こういうの



 ここは仏陀が仏陀と呼ばれる前に覚りを開こうとして失敗した洞窟

中はサウナのように蒸し暑く、中に入るといきなり寄付を請求される



それでは次は紅茶の里ダージリンで!!

2013年11月1日金曜日

仏陀の足跡を辿る旅始るる

緊急速報

先日俺がトランジットで滞在していたPATNAという町で爆破テロが発生し、5人が死んだもよう。危なかったぜ。

と、いかにも後ちょっとで死ぬとこだった、皆俺を心配してくれ構ってくれみたいな書き方をしてみたが、実際は政治化の演説広場で起きた爆破事件。

いくら同じ町の同時系列で起きた事件とはいえ、俺はトランジットで滞在していただけなんだから、そんな集会広場に政治家の演説を聞きに行くはずはない。近いようでとても遠いところで起きた事件でした。

インドに入って2ヶ月が過ぎてしまった。。。。こんな汚くてうざい国はとっとと周って早く出てやろうと思っていたのだが、まだいる俺

なんの予定も無くとりあえずデリーに来てみて、右も左もわからず上と下はわかったので友達の案に乗っかってラジャスターン地区を2週間かけて周る。その間に北インドの最終目的地をダージリンと定めた

ダージリンは昔からの憧れの地だ。なぜならまだ俺が日本にいるころ、紅茶ファンだった俺はダージリンから紅茶を取り寄せては、毎日読書のお供にしていたからだ。近くまで来たら立ち寄ってみたいと思うのは至極当然の事である

しかしである、仏陀縁の地に来た俺はCさん(プライバシー保護のため伏字で)からある義務を課せられ、真っ直ぐダージリンに向かうことができなくなってしまったのである

その義務というのが仏陀の足跡を一つ残らず追って来いと言う指令

なぜ宗教に興味ない俺がそんな事をしなくてはいけなくなったかというと、下のメールのやり取りを見て欲しい

 思い出すだけでも恐ろしい

ことの発端は俺がブッダガヤ周辺の見所を尋ねたところ、とても丁寧で長い案内のメールが帰ってきた。恐らくIpadを使って返信をしてきたので、作成するのに1時間近くはかかったのではないだろうか?

しかし、どこもアクセスが少々困難だったために、面倒くさいと返信したところ、Cさんにブチ切れられたのである。人の苦労を面倒くさいの一言で一蹴しやがって!!おどれは何様じゃーーー!!と、心の声が聞こえてきたわけです

それでついうっかり「全て訪れさせていただきます!!丁寧なご案内とても心に染み入りました!!」 と、返信してしまったのである

そんなわけでブッダガヤ一日目

リキシャから降りた瞬間に俺に話しかけてきたラビ。最初はうざいコミッションボーイかと思って相手にしなかったのだが、結局滞在中は彼の世話になりっぱなしで、唯一この町で信用できるインド人だと後で気がついた

宿はラビの家族が経営しているところに連れて行ってもらい、広くてホットシャワー、部屋まで届くWIFIつきで一泊300ルピー。他にも200ルピーで新築の綺麗なゲストハウスもあったんだけど、ラビの宿には窓が着いていて、昼間は光が差し込むと言うのが決め手になった *ブッダガヤの宿相場は安いです

ブッダガヤは仏陀が覚りを開いた場所として有名で、町のナントカテンプルにはその時仏陀が木の下で瞑想に耽った菩提樹という木が未だに祀られている。

他にも郊外には、仏陀が覚りを開こうとして失敗した洞窟や、そのあと弱った仏陀に粥を与えて助けたスジャータ村など、いくつかの縁の地が存在するが、これらはあまり観光向けではない

次の日早速菩提樹の祀られているナントカテンプルに行ってみた

入場料は掛からないが、カメラを持ち込むのに100ルピーほど必要だ




 これがナントカテンプルでこの建物の後ろに菩提樹が祀られている



理解できないのは、なぜこんな由緒ある木のまん前にテンプルを建ててしまったのだろうか?何の意味があるの?
むしろ木から光を奪って成長を阻害しているようにしか見えませんが。。。。だから宗教って嫌い

おおかた木だけじゃ今一ありがたみが伝わないから、とりあえずなんか立派なもんでも目の前に建ててみるかってところじゃないか

 残念な気持ちで寺院を出た後は昼食をとり、町のあちこちにある世界の寺院をまわる。ブッダガヤには世界各国(大体が仏教国の)寺がある。中国寺 ベトナム寺 みたいな感じで町中にあるので、歩いてれば自然と目に入ってくる

もちろん日本寺もある。とくに面白いこともないので詳しくは触れないが、一つだけ書くとしたら、ここには寄付で集められた日本の書物を読める図書館があって、そこに村上春樹の本が大量に展示されてたのが良かった

そしてやはりこの町もうざい

俺が寺めぐりをしなが町をぶらついていたら、自称学生と言う2人のインド人が俺の後をついてきてガイドを始めた

もちろん金目当てなのは分かっていたが、放っておいた。口論になったときに武器として使えるので、一応ガイドは必要ない旨は伝えたが、暇だから気にするなとの事だった

それなりに役には立ったがやはりいつまでも後をついて来られるのもうざいので、今一度ガイドは必要ないことと、金を払う気は毛頭ないと伝えた

すると彼らは「俺たちは学生で金を稼ぐ手段がない。俺は学校を卒業したらプロのガイドになりたいがそれには準備金が必要なんだ。だからこうして自分達の町をガイドして毎日こつこつお金を溜めてる。少なくとも俺たちは3時間近くあなたに時間を割いたんだから、それ相応の賃金を支払うのはあたりまえの事です」と、割と丁寧に話してくる。喋り方は丁寧であっても、よくよく内容を精査すると暴力的である

そこで俺もいつもとは違い紳士的に答えた「OK 確かにガイドしてもらったらガイド料を支払うのは当然だと思う。だけど俺は最初にガイドは必要ないと伝えたけど、どうかな?」

「でも俺たちは実際に3時間も時間をさきあなたをガイドしました、だからその分は頂きたいのですが」

「断る。少なくともガイドしてお金を相手に請求するなら前もって言う必要がある。勝手に人の後をつけまわして好き勝手に喋って最後にガイド料を請求するのは実にアンフェアだ。金が欲しいなら前もって言うべきだった。」

「でも俺たちは実際にあなたに3時間割いた」と、都合の悪いとこは聞かなかったことにして話を振り出しに戻す。いくら紳士ぶってもやはりこいつらはそこら辺のインド人と変わらない

飽きれて無視して歩くが、後ろから喋りながらついて来る

「俺は帰るからついて来るな、金は払わない。あまり俺を怒らすなよ」と、警告すると「どうしても払いたくないならOKだ、でも宿までは送るよ」

なにをたくらんでるかわからないのでもちろん断るが、後をついて来る。こいつらに宿の場所を教えるのも嫌なので振り切る方法を考える

何回かついて来ない様に警告したが、なんだかんだ言い訳をしながらついて来るので、俺は宿の近くの人気のない空き地に早歩きで向い始めた

「おい 何処行くんだ?そっちに宿はないぞ」「お前らに宿の場所を教えた覚えはない!!それに俺が何処に行こうが関係ないだろう、ついてくるな!!」

「そりゃそうだけど、そっちには空き地があるだけだぞ」 俺「・・・・・」無視して歩き出す

人気がなくなってきた状態で背中を見せて歩くわけにもいかないので、Itouchのバックカメラで2人の様子をディスプレイで確認しながら歩く

2人はヒンドゥー語で何か相談してるが、どうやら不穏な空気を感じ取ったようで2人とも不安そうな顔をしている

そのまま歩き続けると、2人は立ち止まり、そのまま来た道を引き返していった

これでいいのだ

そのままついて来たら、腹を数発殴って首絞めて落としてやろうかと思ったけど、こちらのたくらみを敏感に感じ取ったのか、そうそうに去っていった

俺もできれば穏便に済ませたかったので、いなくなってくれて助かった・・・・・

あああああああインド うざっ!!!!