プシュカルには簡単に登れる山が町の外れの南と北に一つずつあり、その頂上にはヒンドゥー教の寺院が祭られている
シーズンには町で祭りが開催され、山の寺院には多くのインド人観光局が押し寄せるのだとか。そして今がそのお祭りのシーズン。夕方から深夜にかけて町の中心地から外れにかけて、鐘や太鼓、人の歌や歓喜あまる叫び声が屋台のターリーの匂いと共に風にのって俺のホテルのルーフトップまで聞こえてくる
町の寺院に足を運べば、iphone発売日前日のようにインド人観光客の長蛇の列がみられる。これが聖地と呼ばれる町の威力なのだ
俺はサンセットとエクササイズのため、夕方からブラニーを誘って北の山に向った
登り1時間下りが45分程度のはずであった
俺もブラニーも靴を履き替えずサンダルのまま山に入ったが、下から頂上まで階段が整備されていたので、なんら問題はなかった。周りのインド人も裸足かサンダルだし
町の寺院と同じようにこちらも大渋滞。人の列が山道の先の見えなくなるところまで、まるで螺旋階段を目で追っているようにどこまでも続いている
そして下山してくる人とすれ違うときに向うが「ジャマタギ!!」と言ってくるので、こちらも同じように返すと向こうは嬉しそ顔をして喜ぶのである
意味はわからないがグリーティングの一種なのだろうか?
そしてお約束の写真撮影会
インド人観光客は外国人と写真を撮るのが一つのステータスになっているらしく、ここに来るまでも日本人女子と旅をしてる時に観光地で写真をよく頼まれていた
俺一人だけの時もちょいちょい一緒の写真を頼まれていたが、やはり女の子といる時の方がそういう申し出は増える
特に今回は凄い
やっぱブロンドは人気があるのだろうか?
断る事を知らないブラニーはいちいちそれに対応するものだから中々前に進めない
一人の申し出を受けて一緒に写真を撮っていると、その間に「俺も 俺も」とどんどん下山中登山中のインド人が集まってきていつの間に身動きが取れないくらいに囲まれている
放っておくと他の人の写真に勝手に入ってくる奴、隠し撮りしてる奴、列を抜かす奴、場はどんどん荒れてくる。とはいえこの程度は平和なものである
ひと段落終えて歩き始めると、また写真と話しかけられ、承諾、インド人に囲まれる、終了、また写真と話しかけられ、再び囲まれる・・・前に進めない
このままだと文字通り日が落ちてしまう
頼むから断ってくれブラニー・・・・・
こんな事を繰り返して頂上についたのはなんと2時間後・・・それでもサンセットには間に合ったが、頂上では更なる激しい写真撮影会が繰り広げられる
人気者のブラニー
他にも白人観光客はぱらぱらいたんだけど、なぜか皆ブラニーに寄ってくる。おまけに俺の写真も撮っていくインド人・・・俺はついでか?
頂上に着いてからの数十分に及ぶ写真撮影会、頼んだチャイも冷める頃にようやく一段落できた俺たちはそのまま寺院に入っていった
中は日本の年始の由緒ある寺の中のように人だらけで、汗すらふけない状態。そしてここでもやはり写真撮影会が始る。だから断れって・・・・
そしたら後ろからでかい太鼓をリズミカルに叩きながらオッサンが入ってきた
場は盛り上がり撮影会は一旦中断され、踊るインド人 踊るブラニー 踊る俺
た 楽しい
そして太鼓に合わせて例の言葉「ジャマタギ!!」をリズムカルに刻みだすインド人巡礼者たち
乾いた太鼓の音が夕陽で朱色に染まった山の奥まで響き渡る
人々の歓喜の声 風の音 山の音 沈みかけている太陽からも、夕陽に染まった雲からも、目で見えるあらゆるものから音が聴こえてきたような気がした
世界は常になんらかの音で支配され、そこに生きる生き物達はその音から逃れる事は絶対にできない
いまここに聴こえる音はミニマルなロジックに支配されている
ヒンドゥーの聖地、こじんまりした寺院で巡礼者たちが太鼓のリズムに合わせて踊っている
信仰とは人の心、つまり信じる力の源から成り立っている。だから立派な建物なんて本来必要ないし、逆に俺のように宗教そのものを理解してない人間にとっては無意味なもの
日本で六法全書に記載されている裁判所の意味は、裁判所の建物ではなく、実際に、ある個別的・具体的な訴訟を審理する、1名または数名の裁判官から構成される裁判体のこと
つまり、建物の外で青空裁判をやったって違法ではないのだ
それと同じように、信仰心も建物ではなく、人がここは聖地だと信じれば、その力が強ければ強いほど、数が多ければ多いほど、その聖地は強い意味を、その聖地は力を秘めているのではないかと思う
その場所のひとつがここプシュカル
日もすっかり落ちて暗くなり始めた道を歩き出した。夏祭を途中で抜けてきたように、太鼓の音と人々の歓喜の声が少しずつ遠のいていく
さあ、難しい事考えてないでそろそろリシュケシュに向うか
シーズンには町で祭りが開催され、山の寺院には多くのインド人観光局が押し寄せるのだとか。そして今がそのお祭りのシーズン。夕方から深夜にかけて町の中心地から外れにかけて、鐘や太鼓、人の歌や歓喜あまる叫び声が屋台のターリーの匂いと共に風にのって俺のホテルのルーフトップまで聞こえてくる
町の寺院に足を運べば、iphone発売日前日のようにインド人観光客の長蛇の列がみられる。これが聖地と呼ばれる町の威力なのだ
俺はサンセットとエクササイズのため、夕方からブラニーを誘って北の山に向った
登り1時間下りが45分程度のはずであった
俺もブラニーも靴を履き替えずサンダルのまま山に入ったが、下から頂上まで階段が整備されていたので、なんら問題はなかった。周りのインド人も裸足かサンダルだし
町の寺院と同じようにこちらも大渋滞。人の列が山道の先の見えなくなるところまで、まるで螺旋階段を目で追っているようにどこまでも続いている
そして下山してくる人とすれ違うときに向うが「ジャマタギ!!」と言ってくるので、こちらも同じように返すと向こうは嬉しそ顔をして喜ぶのである
意味はわからないがグリーティングの一種なのだろうか?
そしてお約束の写真撮影会
インド人観光客は外国人と写真を撮るのが一つのステータスになっているらしく、ここに来るまでも日本人女子と旅をしてる時に観光地で写真をよく頼まれていた
俺一人だけの時もちょいちょい一緒の写真を頼まれていたが、やはり女の子といる時の方がそういう申し出は増える
特に今回は凄い
やっぱブロンドは人気があるのだろうか?
断る事を知らないブラニーはいちいちそれに対応するものだから中々前に進めない
一人の申し出を受けて一緒に写真を撮っていると、その間に「俺も 俺も」とどんどん下山中登山中のインド人が集まってきていつの間に身動きが取れないくらいに囲まれている
放っておくと他の人の写真に勝手に入ってくる奴、隠し撮りしてる奴、列を抜かす奴、場はどんどん荒れてくる。とはいえこの程度は平和なものである
ひと段落終えて歩き始めると、また写真と話しかけられ、承諾、インド人に囲まれる、終了、また写真と話しかけられ、再び囲まれる・・・前に進めない
このままだと文字通り日が落ちてしまう
頼むから断ってくれブラニー・・・・・
こんな事を繰り返して頂上についたのはなんと2時間後・・・それでもサンセットには間に合ったが、頂上では更なる激しい写真撮影会が繰り広げられる
人気者のブラニー
他にも白人観光客はぱらぱらいたんだけど、なぜか皆ブラニーに寄ってくる。おまけに俺の写真も撮っていくインド人・・・俺はついでか?
頂上に着いてからの数十分に及ぶ写真撮影会、頼んだチャイも冷める頃にようやく一段落できた俺たちはそのまま寺院に入っていった
中は日本の年始の由緒ある寺の中のように人だらけで、汗すらふけない状態。そしてここでもやはり写真撮影会が始る。だから断れって・・・・
そしたら後ろからでかい太鼓をリズミカルに叩きながらオッサンが入ってきた
場は盛り上がり撮影会は一旦中断され、踊るインド人 踊るブラニー 踊る俺
た 楽しい
そして太鼓に合わせて例の言葉「ジャマタギ!!」をリズムカルに刻みだすインド人巡礼者たち
乾いた太鼓の音が夕陽で朱色に染まった山の奥まで響き渡る
人々の歓喜の声 風の音 山の音 沈みかけている太陽からも、夕陽に染まった雲からも、目で見えるあらゆるものから音が聴こえてきたような気がした
世界は常になんらかの音で支配され、そこに生きる生き物達はその音から逃れる事は絶対にできない
いまここに聴こえる音はミニマルなロジックに支配されている
ヒンドゥーの聖地、こじんまりした寺院で巡礼者たちが太鼓のリズムに合わせて踊っている
信仰とは人の心、つまり信じる力の源から成り立っている。だから立派な建物なんて本来必要ないし、逆に俺のように宗教そのものを理解してない人間にとっては無意味なもの
日本で六法全書に記載されている裁判所の意味は、裁判所の建物ではなく、実際に、ある個別的・具体的な訴訟を審理する、1名または数名の裁判官から構成される裁判体のこと
つまり、建物の外で青空裁判をやったって違法ではないのだ
それと同じように、信仰心も建物ではなく、人がここは聖地だと信じれば、その力が強ければ強いほど、数が多ければ多いほど、その聖地は強い意味を、その聖地は力を秘めているのではないかと思う
その場所のひとつがここプシュカル
日もすっかり落ちて暗くなり始めた道を歩き出した。夏祭を途中で抜けてきたように、太鼓の音と人々の歓喜の声が少しずつ遠のいていく
さあ、難しい事考えてないでそろそろリシュケシュに向うか
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